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 美男子を「二枚目」と呼び、美人を「べっぴん」と呼ぶ。日本語には人を見て呼ぶ様々な言葉がある。歌舞伎用語では、一枚目を主役、二枚目を色男、三枚目を道化、四枚目を中堅、五枚目を普通の敵役、六枚目を憎めない敵役、七枚目を巨悪、八枚目を元締め、となっているそうだ。ライバルキャラとして五,六,七枚目の役柄は、それにあった顔づくりも必要だろう。そんな顔を探すのに、主に「しょうゆ顔」と「ソース顔」があるようだ。 
 しょうゆは、あっさりしていて日本的で涼しげな顔の「弥生顔」ともいう東山紀之風。ソースは、彫りが深く西洋的な暑苦しさもある顔で「縄文顔」ともいい阿部寛風だと言われる。これまで「二枚目半」は、外見はカッコ良く、滑稽を演じられる草刈正雄風だったが、言葉そのものが消えつつある。そんな中、どうだ、すごいだろう、の自慢気な態度の「どや顔」が頭角を現してきたが、鬱陶しがられている。しかし、まだバカな「どや」がいる。
 近年「顔」もバラエティーになり、マヨネーズ顔(国分太一)ケチャップ顔(竹内豊)オリーブオイル顔(速水もこみち)みそ顔(渡辺謙)酢顔(松田龍平)砂糖顔(小池徹平)塩顔(瑛太)などが出現。今風の女性が好むモテ顔は、小顔で目は細く、やや離れ、表情が変わらない無機質で冷たい印象の「へび顔」男子と言われる綾野剛風。ほんと、色々だ。
 ところで美人顔はべっぴんと呼ばれる。べっぴんの語源は、愛知県豊橋市の「丸よ」という鰻屋が発祥だという。うなぎの焼き方や味を江戸風にして安価にして出した。そのうなぎの命名を、主人の友である渡辺小華(田原藩家老の渡邊崋山の息子)が〝頗別品(すこぶるべっぴん)〟とした。それを看板にしたところ珍しいと大繁盛。べっぴんは、京ことばで「別の品物」の意であったが、やがて女性の美しい容姿を指す言葉になってきた。そして「高貴な女性」を意味する「嬪」の字が当てられ「別嬪」になり「素顔でも美人」を「素嬪」と呼び、べっぴんの対語はすっぴん、になった。言葉の誕生は意外なところで生まれる。
 女性の「別嬪」に対して男性は「男前」。歌舞伎の世界で「前」は役者の「動き」で、男の動作の美しさを「男前」と呼ぶようになったという。人の姿は、やはり歌舞伎から多くの言葉が生まれているようだ。男は、カッコいいが軽々しい「イケメン」よりも落ち着いて色気ある「男前」のほうがいい。それで「一人前」の男として認められるだろう。
 

# by inakasanjin | 2020-06-05 09:00 | 田舎日記 | Comments(0)

天覧歌舞伎の責任者

 ――外務大臣井上馨伯爵夫人は声をひそめ、重々しい口調で「成田屋さん。これはまだ内々のことなのですけれど、わたくしどもの邸の茶室開きにお上の行幸を仰ぐことになりました。そのさい、こちらの末松さんのおすすめもあり、お芝居を天覧に供したく存じております。それで、成田屋さんに末松さんとご相談のうえ、ご準備いただきたいのです」
 「天覧……でございますか」団十郎の声が、うわずっている。――

 これは小坂井澄『団十郎と「勧進帳」』の一節「誉れの天覧」の中の記述。
 末松さんとは、豊前国前田村(現行橋市前田)生まれの末松謙澄(1855~1920)で伊藤博文の娘婿、内務、逓信大臣などを務めた人物。鹿鳴館時代の明治19年(1886)西洋のオペラに対抗できる舞台芸術として歌舞伎に注目し、演劇改良運動を興した人でもある。
 明治9年に能楽、19年に相撲が天覧の栄を受けたことから歌舞伎界も天皇の観劇を熱望していた。その意向を伊藤と井上が受け、内務省参事官の末松に指示、井上邸茶室移築の披露目に天皇招待が秘密裏に進められた。

 歌舞伎は、戦国時代から江戸初期にかけて京や江戸に流行った派手な衣装や一風変わった異形を「かぶき者」と言い「かぶき踊り」が慶長年間(1600年前後)に一世を風靡、これが「かぶき」で、動きや装いを取り入れて歌舞する女の意であり、江戸時代は「歌舞妓」だったが、近代になって「歌舞伎」になったといわれる。

 明治20年4月26日から29日まで麻布烏居坂の井上馨邸で明治天皇の行幸、皇后、皇太后の行啓、各国公使を招いて歌舞伎の「勧進帳」「操三番叟」「仮名手本忠臣蔵」などが上演された。
 天皇の「近頃珍しきものを見たり。能よりかは分かりやすく、特に高時の舞は面白し」とのお言葉も残り、4日間にわたる天覧歌舞伎は大成功だった。末松は、天覧劇の総舞台監督として各演目や出演者等を決める責任者だったようだ。
 その後、歌舞伎は、天皇の上覧を賜ったことで社会的地位も向上、我が国を代表する演劇である認識を高める役割も果たした。そして国劇の殿堂としての歌舞伎座竣工が明治22年になった。平成19年(2007)明治の天覧歌舞伎120年記念公演として「勧進帳」が国際文化会館(旧井上邸跡)で行なわれ、天皇、皇后両陛下が来臨された。
 伝統の歌舞伎の技が伝われば、観覧の心も確実に継がれている。

# by inakasanjin | 2020-05-29 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)

 歴史にはまだまだ隠れた真実が眠っているようだ。雑誌「BRUTUS」(2015年10月15日号)を見て驚いた。
 特集「世界に挑戦できる日本ワインを探せ!」のなかに「日本ワインの醸造は細川忠興によって始まった!」があり、細川家18代当主・細川護熙さんのインタビューに「ブドウを栽培した具体的な場所が、現在の住所でいうと福岡県京都郡みやこ町の旧大村だったことがわかった」とある。まさか、日本ワインのルーツがみやこ町だった、となると、まさに地域おこしには格好の素材になる。で、ルーツを探す。

 日本ワインの歴史を繙くと、古くからブドウ栽培が盛んだった山梨甲府の山田宥教と詫間憲久が、書物や来日外国人からの伝授で明治7年(1874)にワイン醸造が試みられたのが最初だと云われ、明治10年には土屋龍憲と高野正誠がフランスに渡って醸造技術を学んで帰国後、ワイン造りに力が注がれた。この解説が一般的だった。
 だが平成2年(1990)刊行の永青文庫(熊本藩主細川家伝来の美術品、歴史資料、蒐集品などの展示、研究を行う)の「日帳」(『福岡県史』収録)古文書から日本ワインの歴史を覆す記述が確認された。江戸時代初期で3代将軍徳川家光治世下、細川家が小倉藩を治めていた時の記録からだ。寛永5年(1628)から7年の細川小倉藩「日帳」に見えるぶどう酒製造に関する記述を抄録する。眠っていた資料である。藩の〝ワイン奉行〟もいたようである。

 寛永五年九月十五日 上田太郎右衛門ニ、仲津郡ニ而ぶどう酒被成御作候手伝ニ、御鉄炮友田次郎兵衛与中村源丞遣候、御郡ニ而、がらミ薪ノちんとして、五匁・銭五貫文ヲ遣候(略)さけ作ならひ候へと申付遣、今度ハ江戸へ上田忠蔵被召連候(略)
 寛永六年十月一日 上田太郎右衛門登城ニ而被申候ハ、ふたう酒二樽被仕上候、手伝ニハ、竹内与谷口次左衛門尉と申者也、仲津郡より今晩持せ来候事。
 寛永七年四月十四日 歩之小姓海田半兵衛登城にて被申候ハ、今度ぶどう酒の御奉行に、高並権平被仰付候へとも、まえかとより拙者仕つけ申候(略)

 藩庁記録「日帳」にワインの原料は〝がらみ〟とある。がらみは緑色の葉に覆われ見つけにくい、野ぶどうに似た野の果実。実は黒色で中はワイン色、皮と実は甘酸っぱい優しい味という。みやこの里で、ワインの原点〝がらみワイン〟の再興を願うばかりだ。


# by inakasanjin | 2020-05-22 09:00 | ふるさと京築 | Comments(0)