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 歴史にはまだまだ隠れた真実が眠っているようだ。雑誌「BRUTUS」(2015年10月15日号)を見て驚いた。
 特集「世界に挑戦できる日本ワインを探せ!」のなかに「日本ワインの醸造は細川忠興によって始まった!」があり、細川家18代当主・細川護熙さんのインタビューに「ブドウを栽培した具体的な場所が、現在の住所でいうと福岡県京都郡みやこ町の旧大村だったことがわかった」とある。まさか、日本ワインのルーツがみやこ町だった、となると、まさに地域おこしには格好の素材になる。で、ルーツを探す。

 日本ワインの歴史を繙くと、古くからブドウ栽培が盛んだった山梨甲府の山田宥教と詫間憲久が、書物や来日外国人からの伝授で明治7年(1874)にワイン醸造が試みられたのが最初だと云われ、明治10年には土屋龍憲と高野正誠がフランスに渡って醸造技術を学んで帰国後、ワイン造りに力が注がれた。この解説が一般的だった。
 だが平成2年(1990)刊行の永青文庫(熊本藩主細川家伝来の美術品、歴史資料、蒐集品などの展示、研究を行う)の「日帳」(『福岡県史』収録)古文書から日本ワインの歴史を覆す記述が確認された。江戸時代初期で3代将軍徳川家光治世下、細川家が小倉藩を治めていた時の記録からだ。寛永5年(1628)から7年の細川小倉藩「日帳」に見えるぶどう酒製造に関する記述を抄録する。眠っていた資料である。藩の〝ワイン奉行〟もいたようである。

 寛永五年九月十五日 上田太郎右衛門ニ、仲津郡ニ而ぶどう酒被成御作候手伝ニ、御鉄炮友田次郎兵衛与中村源丞遣候、御郡ニ而、がらミ薪ノちんとして、五匁・銭五貫文ヲ遣候(略)さけ作ならひ候へと申付遣、今度ハ江戸へ上田忠蔵被召連候(略)
 寛永六年十月一日 上田太郎右衛門登城ニ而被申候ハ、ふたう酒二樽被仕上候、手伝ニハ、竹内与谷口次左衛門尉と申者也、仲津郡より今晩持せ来候事。
 寛永七年四月十四日 歩之小姓海田半兵衛登城にて被申候ハ、今度ぶどう酒の御奉行に、高並権平被仰付候へとも、まえかとより拙者仕つけ申候(略)

 藩庁記録「日帳」にワインの原料は〝がらみ〟とある。がらみは緑色の葉に覆われ見つけにくい、野ぶどうに似た野の果実。実は黒色で中はワイン色、皮と実は甘酸っぱい優しい味という。みやこの里で、ワインの原点〝がらみワイン〟の再興を願うばかりだ。


# by inakasanjin | 2020-05-22 09:00 | ふるさと京築 | Comments(0)

花のいのちはみじかくて

 作家の林芙美子(1903~51)と言えば、すぐに小説『放浪記』と「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」のフレーズが思い出される。この「花のいのち……」は格言でもなく歌でも句でもない。ただ芙美子は求められれば、この言葉をしたためたという。
 今「花のいのち」は彼女を超えた存在として広く膾炙されているようだ。ところが、この言葉の出典はどこなのか、長い間、議論が続いていたようだが、ようやく決着がついた。

    風も吹くなり 雲も光るなり 生きてゐる幸福は
    波間の鷗のごとく 漂渺とたゞよひ
    生きてゐる幸福は あなたも知ってゐる 私もよく知ってゐる
    花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かれど
    風も吹くなり 雲も光るなり

 謎だった言葉は、芙美子と交流のあった『赤毛のアン』翻訳者の村岡花子(1893~1968)に贈られた言葉の中にあった。村岡さんの遺族宅書斎に「芙美子自筆の全文」が額に入って飾られていたという。時が経てば謎は謎でなくなってくるようだ。
 彼女は下関生れと言われていたが、近年、北九州の門司生れ説が浮上、戸籍は鹿児島となっているようだ。旅商いの両親について各地を転々としたが、文才を認められて尾道高等女学校(現尾道東高校)へ進学、18歳から地方新聞に詩などを投稿していた。
 上京後、25歳の時、長谷川時雨主宰の女人芸術誌に自伝的小説「放浪記」を連載。後、出版した『放浪記』は底辺の庶民を活写する作品として評判をとり、小説は売れに売れ、流行作家となった、が、貧しい生い立ちだったため、貧乏を売り物にする成り上がり小説家だとか、軍国主義を吹聴する政府お抱え作家などの誹謗中傷が飛び交い、批判の的になった。
 彼女は波乱万丈の生涯を送り、昭和の名作となる『浮雲』脱稿後、40代の若さで生涯を閉じた。

 彼女の生き方から「花のいのち」の最後「多かりき」は嘆き、悲しむ諦観の感無きにしも非ずだが「多かれど」であれば、何かあるのでは、と夢や希望を抱ける楽しさが湧く。やはり「き」より「ど」がいい、人生いろいろのフレーズにはピタリくる。しかし、天性の明るさを持つ芙美子の「き」には、貧しさを超えて「それでも生きる」女の覚悟があるようだ。

# by inakasanjin | 2020-05-15 09:00 | 文学つれづれ | Comments(0)

昭和天皇の涙

 平成27年(2015)8月15日、戦後70年の全国戦没者追悼式典に参列された天皇陛下がお言葉を述べられる姿がTV画面にあった。1日が黙祷の日だった。TV各局は戦後のドキュメント番組を放送。その中で、人間宣言をした昭和天皇が全国を巡るご巡幸を伝える特集があり、温かいエピソードが紹介された。
 昭和24年(1949)5月22日、九州ご巡幸の折、佐賀県基山町の因通寺でのことだった。寺には、戦災孤児の世話をする洗心寮があった。天皇は、寮に入ると、子どもたちに親しく声をかけてすすまれた。ある部屋で1人の女の子の前に佇まれた。女の子は2つの位牌を手にしていた。

 「お父さんとお母さんですか」と、天皇はたずねる。
 「はい、父と母です」と女の子。
 「どこで亡くなられたの」
 「父はソ満国境で、母は引き上げる時に亡くなりました」
 「お淋しい?」のお言葉に
 「淋しくはありません、私は仏さまの子ですから」と答え
 「仏さまの子は、お浄土で父と母に会えるのです。だから会いたくなったら仏さまに手を合わせ、父と母の名を呼ぶと、2人は優しく抱いてくれます。私は、淋しくありません」と続けた。
 天皇は女の子のそばに行き、頭をそっと撫でつつ話しかけた。
 「仏の子どもはお幸せね。これからも立派に育ってくださいね」
 昭和天皇の目には大粒の涙、それが頬を伝った。女の子が「お父さん」と呼んだ。
 天皇はあふれる涙を隠すことはなかった。周りの人は言葉を無くし、立ち竦んだ。

 天皇は、その想いを歌に詠まれた。
  みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸あれ
 この御製は因通寺の梵鐘に刻まれ、鐘の音とともに人々の心に届けられている。

 昭和天皇のご巡幸は、昭和21年2月に始まり、GHQの中止命令で22年12月に一旦中止された。この「涙」の話は、ご巡幸が再開されてすぐだったようだ。
 そして29年まで沖縄以外の全国の地、約3万3千キロを8年半余かけて廻られた「陛下の虚心なお姿」は、国土復興を願う日本人の魂を呼び覚ましたようだ。

# by inakasanjin | 2020-05-08 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)