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岸壁の母 

 TVの歌番組を観ていた妻が「涙がでましたよ」と云う。子育てを終え、義父が逝き、孫が生まれて老齢に達した今「岸壁の母」を聴き、しみじみ身に沁みたようだ。
 この歌は明治32年(1899)石川県で生まれた端野いせ(82歳で没)さんがモデル。終戦後、昭和25年から6年間、東京で「戦死告知書」を受けても、猶、息子の生存と復員を信じ、ソ連の引揚船が京都の舞鶴港に入港する度、岸壁に立った。

  母は来ました 今日も来た この岸壁に 今日も来た とどかぬ願いと知りながら 
  もしやもしやに もしやもしやに ひかされて 
  また引揚船が帰って来たに、今度もあの子は帰らない、この岸壁で待っている
  わしの姿が見えんのか、港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ、
  帰れないなら大きな声で、お願い、せめて、せめて、一言……
  呼んで下さい おがみます あゝおっ母さん よく来たと 海山千里と云うけれど 
  何で遠かろ 何で遠かろ 母と子に
  あれから十年、あの子はどうしているじゃろう、雪と風のシベリアは寒いじゃろう、
  つらかったじゃろうといのちの限り抱きしめて、この肌で温めてやりたい、
  その日の来るまで死にはせん、いつまでも待っている……
  悲願十年 この祈り 神様だけが知っている 流れる雲より 風よりも
  つらいさだめの つらいさだめの 杖ひとつ 
  ああ風よ、心あらば伝えてよ、愛し子待ちて今日も又、
  怒涛砕くる岸壁に立つ母の姿を……

 息子の帰りを待つ母の姿がマスコミに取り上げられ、昭和29年、藤田まさと作詞、平川浪竜作曲、室町京之介台詞「岸壁の母」が、菊地章子の歌でテイチクから発売されて大流行。後、昭和47年にはキングから出された浪曲調の二葉百合子のレコードが大ヒット、国民的歌謡になった。映画(中村玉緒)やTVドラマ(市原悦子)にもなり、母の子に対する純真な愛は息長く歌い継がれている。
 いせさん没後の2000年、岸壁に立ち、帰還を待ち続けた息子さんが上海で生きていたことが判った。母の「もしやもしや」の思いは真実だった。母は強しだ。


# by inakasanjin | 2020-06-26 09:00 | 田舎日記 | Comments(0)

8月や6日9日15日 

 5・7・5の17文字の俳句。何百万人も句を詠む人がいるというが、おなじ17文字がどこかにあるのでは、と常々思っていた。その「先行句あり」を「それは誰だろう」と追った小林良作著『8月や6日9日15日』(「鴻」発行所出版局)を読むことが出来た。
 小林さんは「8月の6日9日15日」の句を結社の俳句大会に応募。すると先行句があるとの連絡を受け取り消した。ただ「の」や「は」「や」の違いだけで、同じ思いの方がいる、それも何人もいる。彼の探求心が湧き「最初の詠み人」捜しの旅が始まった。
 まずネット検索、全国各地の俳句結社や新聞社などで「句探し」をすすめ、大分県の特攻隊基地の跡地公園に「8月や6日9日15日」を刻む句碑があると聞き、訪ねた。
 3つの日付を詠み込む句は、単純で簡単、だがズバリ現代史を象徴する。だから人間の発想に「同じ思い」の人々が居てもおかしくはない。ところが、これが「作品」として動き出すと、そうはいかなくなる。それを純粋に追った小林さんに敬意。そして「句」の作者が広島県尾道市で医師をしていた諫見勝則さん(1925~2014)と突き止めた。
 諫見さんは、長崎県諫早市出身で、昭和18年(1943)江田島の海軍兵学校に入校した後、広島の原爆を体験。昭和21年、未だ原爆廃虚の中の長崎医科大に入学。そして25年、医師としてのスタートは長崎からだった。戦後、長崎と尾道で被爆者の診療にもあたったといわれる。広島、長崎、終戦の「8月や6日9日15日」は、平成4年(1992)に諫見さんが最初に詠んだ、と小林さんの調査で判明。作句者が原爆に関わる人物だったことの意味は重い。だから「の」ではなく「は」でもない「や」なのだろう。
 ネットの俳句データーベースで栃木の荻原枯石による「句」との記述もあるが、やはり諫見医師による実体験に基づくであろう句づくりに軍配を上げたい。また、この「句」は永六輔さんがラジオ番組で紹介したこともあり、広く知られるようになったと言う。
 尾道で医院を引き継ぐ諫見康弘氏は「句は、父が診察室に掛かるカレンダーを〈ある想い〉で見つめていて、ふっとでてきた言葉」だったというが、句を追った小林さんは「6日」「9日」「15日」が、如何に「単なる追憶の日付ではない」深く、重い「日」であるか、を記した。言葉が簡素だからこそ、誰もの心にグサリと突き刺さり、残る。

# by inakasanjin | 2020-06-19 09:00 | 文学つれづれ | Comments(0)

平安の祈り

 あるグループのミーティングの終了に参加者全員で唱和する言葉が身にしみた。不思議と気持ちが和らいだ。言葉が届く、という感じだ。それは「平安の祈り」だった。

  神さま 私にお与えください 自分に変えられないものを受けいれる落ち着きを
  変えられるものは変えていく勇気を そして 2つのものを見分ける賢さを

 皆で言葉を言い終えると、会議は解散になる。ところが、この言葉には続きがあった。

  今日1日を生き この一瞬を享受し 苦しみを平和に至る道と受け入れますように
  この罪深い世界を 私ではなく 神さまの御業として あるがままに受け止めますように
  神さまの意志にゆだねれば すべてをあるべき姿にしてくれると信じられますように
  私はこの世を生きて幸せでしょう 神さまと共にあることに
  このうえない幸せを感じることができますように 永遠に アーメン

 「平安の祈り」は、アメリカの神学者ラインホルド・ニーバー(1892~1971)の言葉だ。彼は政治や社会問題について意見を発し、多くのリベラルに影響を与え「現実主義的」なアメリカの対外政策を後押ししたという。また渡辺和子さん(1927~2016)は、36歳で岡山県のノートルダム清心女子大学の学長に就任後、若く未経験の事柄や学長の重責で、苦労も多かった。挨拶してくれない、解ってくれないなど「くれない族」となり、思い悩んでいた時、ニーバーの詩「置かれた場所で咲きなさい」に救われたという。

  置かれた場所で咲きなさい。仕方がないと諦めるのではなく、人生の最善を尽くし、
  花のように咲くことです。咲くことは、幸せに生きることです。
  あなたが幸せになれば、他の人も幸せになります。あなたの笑顔が広がっていきます。
  あなたが幸せで、それをあなたが笑顔で示せば 他の人たちもそれがわかり、
  幸せになります。神はあなたを特別なところに植えたのです。
  もし、あなたが他の人たちと分かち合うことを知れば、あなたの人柄は輝きます。
  「輝く」ことを「咲く」というのです。神がわたしを置いた場所で私が花開くとき、
  わたしの人生は人生の庭で美しい花になるのです。置かれた場所で咲きなさい。

 人は苦しむからこそ生きてゆく言葉を探し、見つけて心に刻む。必ず、苦が生を生む。

# by inakasanjin | 2020-06-12 09:00 | 田舎日記 | Comments(0)