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 慶應義塾大学は、中津藩士の福沢諭吉(1835~1901)が、安政5年(1858)に東京の藩邸に開いた「蘭学塾」が起源。慶応4年(明治元年=1868)の塾移転の際、年号を採って「慶應義塾」とした。また早稲田大学は、佐賀藩士の大隈重信(1838~1922)が、蘭学校の北門義塾の意志を継いで明治15年(1882)に東京専門学校を設立。後、明治35年、大学昇格を機に、校名を大隈が暮らす「早稲田村」に拠ったとされる。九州男児2人が、2大私学を開学した。2人の幼い頃の母との関わりを追ってみる。

 諭吉は、5人兄姉の末っ子に生まれ、1歳半の時に父親が病気で亡くなった。母・お順は5人の子を女手一つで育てた。彼の『学問のすゝめ』に母の深い愛情と優しい姿が記されている。あるエピソードでは、誰もが嫌がり、寄りつかない乞食娘を母は良く面倒を見ていた。娘が来ると、いつも縁側に座らせてシラミを取ってあげた。そのシラミを小石で潰す役が諭吉だった。ある日、彼が「気分が悪くなりました」と横を向くと、母は「シラミを取ってもらうと気持ちがいいからでしょ、自分では取れないんですよ」といい「できる人ができない人のためにしてあげる、これは当たり前のことでしょ」と諭した。この原点があるからこそ〈天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず〉や〈人に貴賎はないが勉強したかしないかの差は大きい〉などの名言が出てきたのだろう。彼は「徳育」を大事にした。

 重信は、幼い頃はすぐに泣く甘えん坊で母っ子だった。5人弟妹の長男で12歳の時、父が亡くなった。しかし母・三井子は伴侶の突然死にも拘らず、気丈に女手で子を育てた。

 子育てではいくら狼藉しても責めたり、叱ったり、咎めたり一切しなかった。ただ5つの教え「①ケンカをしてはいけません②人をいじめてはいけません③いつも先を見て進みなさい④過ぎたことをくよくよ振り返ってはいけません⑤人が困っていたら助けなさい」を子らに伝えた。母は家に子の友がたくさん遊びに来ると、心から歓待して手料理を振る舞った。とにかく人を愛した母の心根が、彼の政治の世界にも影響を与えていたようだ。2度の総理大臣を務め、暴漢に襲われて右足を失っても〈愛国の精神をもって行動したる志士なり〉と暗殺未遂犯を称賛した。これは母の底知れぬ人類愛を受け継いだもののように思える。

 ふたりの母は、やはり偉大である。子は母の教えを守って〝両雄並び立つ〟ている。

 

        


# by inakasanjin | 2020-09-18 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)

 韓国の朴槿恵大統領と日本の安倍晋三首相の目が合わない。お隣のリーダー同士が対話できないでいる。打開策を探っているようだが、なかなか見つからないようだ。

 ところで、本屋で面白いかな、と、黄文雄『日本人だけが知らないー世界から絶賛される日本人』のページを捲った。と「400年ぶりに韓国にハングルを復活させた日本人たち」の項目があった。買って、読んで、驚いた。えっ、何、日本人がハングルを復活させた、とは知らなかった。黄文雄は台湾出身の評論家。

 漢字は古代中国に発祥した文字。日本の文字は、カタカナが漢字(楷書)の一部を使って作られた男文字、ひらがなは漢字(草書)の全体を略して作られた女文字とされ、平安時代(794~1192)に生まれたようだ。ハングルは第4代朝鮮王の世宗(セジョン)大王(1397~1450)によって創られたものの、宗主国・中華王朝への遠慮もあり、是認が不可欠条件など両班(ヤンバン)から猛反対に遭い、王の交代で1504年に学習が禁止、後、廃止された。明治19年(1886)日本で鋳造されたハングル活字で印刷された新聞「漢城周報」が韓国で発行された。文章は漢字とハングルの混合文。これは福沢諭吉の提案で文体は韓国の儒学者・姜瑋(キョウイ)の創案と言われる。朝鮮が清国から離れて独自の文化をと、ハングル奨励の朝鮮初の新聞創刊で、日本人の井上角五郎(1860~1938)によってなされた。

 井上は、備後国深津郡野上村(広島県福山市)に生まれ、藩校への特例入学が許可されるほど学業優秀、のち福沢門下生となり慶応義塾を卒業。その彼が諭吉の指示で朝鮮政府顧問として派遣された。新聞へのハングル混用は「姜瑋や宮中の内官たちの功を忘れることができない。とくに外国人である福沢諭吉と井上角五郎の熱意は高く評価」と『韓国新聞史』に記すとある。日清戦争では朝鮮半島の独立、近代化に努め、日韓合邦(1910)以降、ハングルが韓国民に教えられ始め、国民の文字になった。百年あまりだ。近年、韓流ドラマに魅せられた日本人も多く、交流も深まっていたが、竹島問題などが出ると韓国は日本バッシング。と、日本人に嫌韓感情が生まれ、悪韓や犯韓、悲韓、忘韓、捨韓などの造語も飛び交い『もう、無韓心でいい』という本も出た。日本人がハングルを国の文字として根付くよう関心を示した行動を忘れまい。


# by inakasanjin | 2020-09-11 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)

 言語学者の金田一京助(1882~1971)は、北海道登別市出身のアイヌ人女性・知里幸恵(ちりゆきえ1903~22)を「天が私に遣わしてくれた、天使のような女性」と記す。金田一のアイヌ研究の原点の人物のようだ。
 彼女は6歳の時、旭川市の伯母のもとで育ち、和人と同じ小学校に通ったが、後、アイヌ人のみの学校に移り、成績優秀で実業学校まで進学、日本語もアイヌ語も堪能だった。
 15歳の時、アイヌの伝統文化を記録するとして金田一が幸恵の家に来た。幸恵の祖母がアイヌの口承の叙事詩(カムイユカラ)の謡い手だった。カムイユカラは「文字」を持たないアイヌ人にとって価値、道徳、文化の継承には重要なものだった。
 幸恵は生活のそばにカムイユカラがいつもあった。祖母らに話を訊く金田一の姿に幸恵は畏敬の念を抱いた。
 17歳、金田一からカムイユカラを「文字」にして残そうとノートが送られてきた。その要請を幸恵は素直に受けて「アイヌ語」から「日本語」への翻訳作業にかかった。
 彼女は纏めたノートを金田一に送ると『アイヌ神謡集』として出版しましょう、との連絡で上京、金田一家で草稿執筆を開始。そして原稿を書き終え校正も済ませた大正11年(1922)9月18日、心臓麻痺で彼女は急逝。19歳だった。
 この世に貴重な1冊を遺して逝った彼女の著書の「序」が素晴らしい、抄録する。 

 「その昔この広い北海道は、私たち先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人だちであったでしょう。(略)愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか、おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙い筆に書連ねました。(略)読んでいただく事が出来ますならば…… 大正一一年三月一日 知里幸恵」と記す。

 フランスのノーベル文学賞作家ル・クレジオは、2009年、北海道大学で「私の文学と先住民族文化」来日講演の折、登別市にある「幸恵の墓」を訪ねたと言われる。

# by inakasanjin | 2020-09-04 09:00 | 文学つれづれ | Comments(0)