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 人の縁とは不思議。長崎出身のシンガー・ソングライターのさだまさし(1952~)は「直接の面識」はないアフガニスタンで2020年12月4日、非業の死を遂げた中村哲医師(1946~2019)へ「捧げる」歌をつくった。彼は「先生から手紙をもらったような歌」になったという「ひと粒の麦」は、大地に流れ、広がり、人々の心を励ます。


  ひと粒の麦を大地に蒔いたよ/ジャラーラーバードの空は蒼く澄んで/

  踏まれ踏まれ続けていつかその麦は/砂漠を緑に染めるだろう//

  戦に疲れ果てた貧しい人達には/診療所よりも一筋の水路が欲しい/

  水があればきっと人は生きられるだろう/諍いを止める手立てに//

  Mom℮nt/薬で貧しさは治せない/

  Mom℮nt/武器で平和を買うことは出来ない/

  Mom℮nt/けれど決して諦めてはならない//

  ひと粒の麦の/棺を担う人に/伝えてよ悲しんではいけないと//

  この星の長い時の流れの中で/百年など一瞬のこと//

  ペシャワールの山の向こうの見果てぬ夢意外に/伝えたいことは他にはあまり無い/

  珈琲カップに夕日が沈む頃に/ふと思い出してくれたらいい//

  Mom℮nt/いつか必ず来るその時まで/

  Mom℮nt/私に出来ることを為せば良い/

  Mom℮nt/私に出来るだけのことを//

  Mom℮nt/薬で貧しさは治せない/

  Mom℮nt/武器で平和を買うことは出来ない/Mom℮nt//

  Mom℮nt/夢はきっと引き継がれるだろう/

  Mom℮nt/私に出来ることを為せば良い/

  Mom℮nt/私に出来るだけのことを  

   ――「ひと粒の麦~Mom℮nt~」


 さだは「お互い侠客の血を引く者として意識してきた」という。中村医師は芥川賞作家の火野葦平(1907~60)を伯父に持ち、北九州・若松港の石炭荷役請負「玉井組」を率いた玉井金五郎が祖父であり、さだは長崎港で港湾荷役の沖仲仕を束ねた「岡本組」の岡本安太郎が曾祖父である。まさに任侠の血を引く2人。中村医師の「無私の精神」は、大震災や豪雨被災地への支援ライブを続けるさだの「行動理念」に通じる。「義と情」の人間に対する深い愛は共通しているようだ。歩む道は違っても、また、まみえることが叶わずとも目指す愛は、交叉し、繋がり、深まって、救いと夢を灯し続ける。人の愛は永遠。


# by inakasanjin | 2021-12-03 09:00 | 田舎日記 | Comments(0)

新撰組「誠」の人びと

 幕末の動乱期、多くの英雄が誕生した。中でも「新撰組」は集団として際立った。新撰組は尊皇攘夷、倒幕運動の志士から徳川幕府を守るため、清河八郎の献策で町人や農民、浪士などで構成する「壬生浪士組」の非正規組織を「会津藩預かり」として発足させた。

 新撰組は、文久3年(1863)の「8月18日の政変」後、芹沢鴨と近藤勇を中心にスタートしたが、芹沢が乱暴狼藉をくり返すため、会津藩の命令による内部抗争で暗殺、後、近藤が率いることになった。組織は厳しい鉄の掟「局中法度」を作り、守らせた。


1、士道二背キ゚間敷事  1、局ヲ脱スルヲ不許  1、勝手二金策致不可

1、勝手二訴訟取扱不可 1、私ノ闘争を不許  右条々相背候者切腹申付ベク候也


 新撰組は「池田屋事件」に関与「禁門の変」に参加「鳥羽伏見の戦い」に参戦するなどしたが、明治2年(1869)の戊辰戦争終結後に解散。約6年で組織は消えた。

 新撰組は真で偽りのない忠義一筋の「誠」の「隊旗」を掲げて突き進んだ。儒教の教えの「至誠、天に通ず」に沿い、仏教と神道が結ばれる武士道にあって、誠は「言」を「成」す、いわゆる「武士に二言はない」に由るとされる。しかし、一方では「人きり集団」と呼ばれ、新政府下では「賊軍」だった。彼らの詠んだ歌など、いくつかを拾って見る。


   雪霜に色よく花の魁けて散りても後に匂ふ梅が香       芹沢鴨

   綾なる流れに藤の花にほうわが生涯に悔はなし        近藤勇

   たとひ身は蝦夷の島根に朽つるとも魂は東の君やまもらむ   土方歳三

   鉾として月見るごとにおもふ哉あすはかばねの上に照かと   沖田総司

   武士の節を尽して厭まても貫く竹乃心一筋          永倉新八

   我も同じ台やとはん行末は同じ御国にあふよしもがな     武田観柳斎

   益荒雄の七世をかけて誓いてし言葉たがはじ大君のため    藤堂平助

   死にてなほ君につかふる真心は千歳をふとも朽ちるものかは  鈴木三樹三郎


 新撰組は、壬生浪士24名から出発し「大政奉還の頃」には同志も増え、最大時は227名にのぼったようだ。組織は「結成」「発展」「分裂」「解散」を歩み、自らの「誠」で国を守ろうとしたことは確かだ。今、どれだけ「誠」をもって国を思う人がいるだろうか。

         


# by inakasanjin | 2021-11-26 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)

 2018年暮、福岡県みやこ町豊津の一般社団法人豊前国小笠原協会(川上義光理事長)は「ガラミワイン」を復興させた。日本ワインのルーツだともいわれるガラミワインは細川家が小倉藩を治めていた寛永5年(1628)以降の記録(『永青文庫』)に「中津郡大村にてふたう酒御作を被成候」「御郡ニて、がらミ薪ノちんとして」などの記述に因る復元がなされた。みやこ町自生のガラミ(学名エビズル)を探索、採取して宮崎県の「五ケ瀬ワイナリー」協力の下、ハーフボトル(375㍉㍑)12本ができた。約400年の時を経て野生採取のガラミで造られたファーストワインは、まさに野の味。濃く奥深い味わいだそうだ。

 メンバーの1人が、占い趣味の知人にワイン製造を話したところ「12本が凄い」と感心され「世の中の12あれこれ」の高説を賜ったそうだ。なので、12を調べてみる。


 12とくれば、まず1年12カ月。1日は午前12、午後12時間となり、円は1周12時間、2周で1日。そして1時間は60分(12×5)で1分は60秒(12×5)だ。

 身近な「十二支」は子、丑、寅、卯、辰、巳、午、羊、申、酉、戌、亥。

 また「キリスト十二使徒」はペトロ、ヨハネ、アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子・ヤコブ、タダイ、シモン、セペダイの子・ヤコブ、イスカリオテのユダ。この12使徒に由来するという各国の陪審員は12名のようだ。

 さらにギリシア神話の「オリンポス12神」はゼウス、ポセイドン、ヘラ、デルメス、アレス、へパイトス、アテナ、アポロン、アルテミス、ヘルメス、アフロディテ、ヘスティアである。

 それに「12処」は6根(眼、耳、鼻、舌、身、意)と6境(色、声、香、味、触、法)で心や心の働きを生じさせる。


 いま「現存12天守」という城は弘前、松本、丸岡、犬山、彦根、姫路、松江、備中松山、丸亀、松山、宇和島、高知である。天守の彼方の夜空を見上げれば「12星座」の牡羊、牡牛、双子、蟹、獅子、乙女、天秤、蠍、射手、山羊、水瓶、魚。12を基にまだ様々ある。

 12基準の考えは、古代天文学で1年を12分割したことが起源ともいわれるが、神や仏の神秘的な力も感じる。ところで英語の数の呼び方は、1(One)から12(Tweleve)で1区切りとなり、何故か13(Thirteen)14(Fourteen)と13以降は、全て(・・teen)である。この言い方の変化も摩訶不思議な気がする。


# by inakasanjin | 2021-11-19 09:00 | 田舎日記 | Comments(0)

 福岡県京都郡豊津町(現みやこ町)出身で京都高女(現県立京都高)卒の大石千代子(本名=有山千代子1907~79)の女流小説家としての活躍を、今、郷土で知る人は、殆んどいない。足跡を辿ってみる。


 彼女は外務省勤務の夫とブラジルとフイリピンで十数年を暮らした。フイリピン滞在時の体験を昭和14年(1939)に小説『ベンゲット移民』として発表。その作品が第9回芥川賞(14年上半期)候補として最終段階まで残ったが、選考委員の宇野浩二によれば「16作家の中から、私は滝井孝作と相談して(略)6人の作品を選んだ」中にはなかった。その回は長谷健『あさくさの子』と半田義之『鶏騒動』2作品が受賞した。が、大石は「芥川賞予選候補作家の群像」に石上玄一郎や木山捷平などと記録されている。

 大石は、高女在学中(大正12年卒)から文学を志し、豊津で鶴田知也(作家)福田新生(画家)高橋信夫(音楽家)3兄弟らの文芸誌「村の我等」に妹の生田久子と参加。文学への情熱を深め、習作の修業に励んだ。その後「女人芸術」同人になり長谷川時雨門下として林芙美子、平林たい子、円地文子らと親交を結んだ。


 大石の「ベンゲット移民」は、満州移民のような国策移民ではなく、貧しい日本を救えればと、国民自ら好況時のフイリピンに渡航し「不法外国人労働者」とする両国政府黙認の〝移民〟だった。そして米中比人では成し遂げられなかった難工事「ベンゲット道路」などを日本人の血と汗と粘り強さで完成させたと伝わる、が、この悲惨な「事実」を示す記録は、米比にも日本の外交資料にもないという。

 彼女の『ベンゲット移民』に二作家の「序」がある。島崎藤村は「(略)千代女史はここに着眼し、移民の生活から創作をつかみ出すことを試みた。(略)」とあり、長谷川時雨は「(略)異境にまつられぬ『人柱』となった先行移民の1ツの記録を世に傳へた(略)」と記す。もし、この書物がもっと注目されていたならば、歴史に記されてない移民を知っただろうし、今の「繁栄」が、いかに多くの人々の強いられた犠牲の上に成り立っているかを伝え、残せたのではなかろうか。 


 そう第3回芥川賞(11年上半期)受賞作の鶴田知也『コシャマイン記』がアイヌの悲劇を伝え続けるように、同じ豊津の地で育った女性の目で綴った『ベンゲット移民』は、忘れ、埋もれた〝移民〟の現実を新たな記憶として留めさせるかもしれない。読もう。


# by inakasanjin | 2021-11-12 09:00 | 文学つれづれ | Comments(0)

 明智珠(明智光秀3女―1563~1600)は、天正6年(1578)織田信長のすすめで細川忠興に嫁いだ。本能寺の変(1582)後「逆臣の娘」汚名防止のため、忠興は、珠に小侍従や待女らを付けて丹後に隔離、幽閉。信長死後、秀吉の計らいで珠を細川大阪屋敷に戻して監視下に置いた。禅宗信仰の珠だったが、忠興から聞く高山右近のカトリック話にいつしか魅かれていった。天正15年、秀吉がバテレン追放令を出した後、密かに洗礼を受け、ラテン語で恩寵を意味する名(ガラシャ)を授かった。

 忠興出陣の際は「我が不在の折、妻の危機では、まず妻を殺し、全員切腹して妻とともに果てよ」と、家臣に伝え置くのが常だった。慶長5年(1600)上杉征伐の時、ガラシャを人質にと、石田三成は細川屋敷を取り囲んだ。ガラシャは「自分だけで死ぬ」と、侍女らを外に出した。が、キリスト教は自殺を禁じているため、家老の小笠原秀清は、胸を長刀で突き刺す介錯をした。そして彼女の遺体が残らぬよう屋敷を爆破、炎上させて自害したと伝わる。ガラシャらの壮絶な死に石田方は驚いた。彼女の詠んだ辞世が残る。


    散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ


 小笠原秀清(1546~1600)は、信濃小笠原から分れた京都小笠原の生まれで奉公衆として室町幕府に仕え、代々将軍の弓馬師範を務める家柄であった。しかし永禄の変(1565)後、浪人となっていたが、丹後で細川の客分となり、剃髪して少斎と号した。細川の家老として仕え、子息などは細川の近親などと縁戚を結んで重職を担うことになった。またガラシャ夫人を見守る任務も果たし、慶長5年7月17日、彼女の最期を確実に看取って、ともに炎の中で、生涯を閉じた。ガラシャの介錯はすぐそばの人物だった。

 介錯と言えば、江戸時代、刀剣の試し斬りを務める山田家があった。首切り、人斬り浅右衛門と呼ばれ、死刑執行も兼ねた介錯人・山田浅右衛門がいた。死の穢れを果たす役目の浪人だった。例えば7代山田浅右衛門吉利は、安政の大獄(1858)で吉田松陰、橋本左内などを処刑した。介錯は、明治15年(1882)斬首刑の廃止まで続いた。

 ガラシャは側用人・秀清の介錯で旅立ち、大阪の崇禅寺に眠り、堺のキリシタン墓地や京都、熊本などにも墓があると聞く。そばには秀清が寄り添っている気がしてならない。





# by inakasanjin | 2021-11-05 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)