2023年 10月 06日
源義経と武蔵坊弁慶の辞世
童謡の『牛若丸』に「京の五條の橋の上/大のおとこの弁慶は/長い薙刀ふりあげて/牛若めがけて切りかかる(略)鬼の弁慶あやまった」とある。平安時代末の武将で、ともに生没不詳の牛若丸と弁慶を歌ったものである。波乱に富んだ2人の足跡を辿ってみる。
牛若丸は源義経の幼名。尾張国(愛知県)河内源氏の源義朝の9男として生まれた。3男・頼朝の異母弟で九郎と呼ばれた。平治の乱で父の敗戦後、11歳で京都の鞍馬寺に預けられ「遮那王」と名乗った頃、弁慶と出会ったとされる。22歳で兄頼朝が平氏打倒に向けて伊豆での挙兵に馳せ参じた。まず26歳で一族の木曽義仲を倒した後、摂津国(大阪府)の「一の谷の戦い」で平氏に勝利。続いて讃岐国(香川県)の「屋島の戦い」、長門国(山口県)の「壇ノ浦の戦いで」で平氏を破って「平家滅亡」の最大の功労者だったとされる。
しかし後白河法皇から京の治安を取り締まる「検非違使」の位を頼朝の許可なく貰ったことから怒りを買い、対立、頼朝に命を狙われるようになった。陸奥国(岩手県)平泉の藤原秀衡を頼って逃げるもその泰衡の裏切りにより31歳で非業の死を遂げたとされる。
一方、弁慶は紀伊国(和歌山県)出身といわれるが、比叡山の僧で武術を好んだとされ『吾妻鏡』や『平家物語』には「義経郎党の1人」の記述のみで出自や業績などないが、生まれた時、異常で鬼子だといわれ、父が殺そうとしたのを叔母が引き取り「鬼若」と命名して育てたという。後、比叡山に入るが勉学をせず、自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗り狼藉を重ねた。そして京で道行く人の太刀を奪おうと武者と決闘を重ねた折、牛若丸に会い、欄干を飛び回られて返り討ちに遭った。弁慶は降参し義経の忠実な家来となった。そして平家討伐に功名を立てた。だが、頼朝と対立した義経に心寄せ、苦難の逃避行を続けることになった。最後は泰衡との「衣川の戦い」で敵勢から雨のような矢を体に受けて仁王立ちのまま絶命したという。義経を守り抜いた「弁慶の立往生」として後の世に伝わる。そして辞世が遺る。
六道の道のちまたに待てよ君遅れ先立つ習ひありとも 武蔵坊弁慶
牛若丸と鬼若の出会いから生涯をともにした義経の弁慶への返歌ともいわれる辞世。
のちの世もまたのちの世もめぐりあはむそむ紫の雲の上まで 源義経
やはり「立往生」の語源は、義経に寄り添い、追い詰められた弁慶の姿に因るそうだ。
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by inakasanjin
| 2023-10-06 09:00
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2023年 09月 29日
土俵に上った女大関若緑
大相撲の土俵に女性は上れない。記憶に残る方もいると思うが、平成30年(2018)に京都府舞鶴市で行われた「舞鶴場所」の折、土俵上で挨拶をしていた舞鶴市長が、突然、クモ膜下出血でその場に転倒。居合せた女性看護師らが救急処置を行っていると、行司の「女性は土俵から降りて下さい」のアナウンスが流れた。後「女人禁制」の議論勃発。
ところで昭和32年(1957)に愛媛県松山市の高砂部屋「松山巡業」で第39代横綱・前田山(1914~71)親方から挨拶を要請された元女大関若緑(本名・遠藤志げの/1917~77)は「皇后陛下でも大相撲の土俵に上がれません。恐れ多くて土俵には上がれません」と固辞したが「たしかに神代の昔から女は一度も土俵に上がったことはない。でも、いつまでもそんな考えは時代遅れだ。日本の封建的な時代は、今度の戦争で終わった」と前田山親方の懇願、さらに「あれほどのスター力士だったのだから」に折れ「例外例」として紋付きの着物姿で土俵に上って挨拶をした。この巡業は「戦争で女相撲をやめてしまった母の花道を飾る引退相撲を前田山親方が企画してくれていたのです」と息子の泰夫さん。
女が土俵に上がるという、前代未聞の話題は「破天荒な前田山と母だからこそ」で、後に「大きな問題になるわけでもなかった」が、母は「土俵の神様から『男の土俵に上がったらいかん』と𠮟られた、と。ただ、もう二度と土俵には上がれない」と話していたという。
若緑は、地方巡業とはいえ、公式な大相撲の土俵に上がった唯一の女性といっていい。
女大関若緑の歩みを辿って見る。彼女は山形県南陽市宮内の出身。明治13年(1880)創業の「石山女相撲」の興行を見て、唯「相撲を取りたい」の一途な想いになった。17歳で風呂敷一つ抱えて家出、女相撲の世界に入った。四股名は「若緑」。怪力美貌で愛敬よしとあって評判も高かった。3年で女相撲の最高位の大関に昇進。24歳で現役引退をするまで〝美しい女関取〟としてプロマイドもトップの売れ行きの人気力士だった。
ハア~生まれは山形宮内で/娘のときから力持ち/
親に黙って家出して/選んだ道が相撲取り//
好きこそものの上手なれ/一番人気の大関よ//(略)
前田山の計らいで/男相撲の土俵上/
前代未聞の女あり/その名も~女人大関若緑 ――の詞あり。
息子の遠藤泰夫『女大関若緑』には、土俵の上に立つ母(女性)が描かれている。
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by inakasanjin
| 2023-09-29 09:00
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2023年 09月 22日
2・26事件の娘ふたり
歴史の足跡を辿るとドラマがある。昭和11年(1936)に発生した未遂クーデターの「2・26事件」で銃殺された教育総監・渡辺錠太郎(1874~1936)の娘・渡辺和子(1927~2016)さんと陸軍の青年将校ら蜂起による反乱ほう助の罪で禁固5年となり入獄した陸軍少尉・齋藤瀏(りゅう/1879~1953)の娘・齋藤史(1909~2002)さん、ふたりの来し方は、それぞれに苦ありだが、魅力ある生き方で人を導く。
渡辺和子さんは、父53歳の時の子で四人兄姉の末っ子。彼女が9歳の時に2・26事件に遭遇。その日、父の居間に居て、父の指示で座卓の影に隠れていると、襖を開けて数人の青年将校が部屋に乱入、機関銃の銃口を父に向けて撃ち始めた。43発の銃弾で父は絶命。すぐそばで凄惨な情景を目の当たりにした。
彼女は「父のような惨めな死に方はしたくない」と、18歳でキリスト教(カトリック)の洗礼を受けた。29歳でナミュール・ノートルダム修道女会に入会。後、アメリカボストンの修道院へ派遣され、後、岡山のノートルダム清心女子大学教授になり、36歳で同大学の学長に就任した。昭和59年(1984)のマザー・テレサ来日では通訳として活躍。長年、事件の「赦しと和解」に呻吟。彼女の『置かれた場所で咲きなさい』は大ベストセラーになり、多くの人に感銘を与えた。
齋藤史は、父が佐佐木信綱主宰「心の花」に所属していて「歌」は身近だった。17歳の時、若山牧水の勧めで作歌を始めた。後、父を通して親交のあった青年将校らの多くが2・26事件により刑死。父も反乱に連座した罪で入獄。後、彼女の歌風は「鋭く時代を見つめる歌」に変化した。戦後、長野県安曇野に疎開。後、歌誌「原型」を創刊。各種文学賞を受賞後、女性歌人初の日本芸術院会員になった。平成9年(1997)には宮中歌会始の召人を務め、明仁天皇から「お父上は瀏さん、でしたね」と言葉をかけられた。歌を掬う。
濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ
いのち凝らし夜ふかき天の申せども心の通ふさかひにあらず
野の中のすがたゆけたき一樹あり風も月日も枝に抱きて
歴史に隠れた生き様がある。娘ふたり時代の傷を背負って生きてきた。しかし、いくら立場が違っても、ただひたすら、人がともに生きることの尊さを伝え続けてきたようだ。
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by inakasanjin
| 2023-09-22 09:00
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2023年 09月 15日
文化は「室町」から始まる
歴史を遡るといろんな発想も生まれる。福岡県福智町(旧豊前国)の興国寺に足利尊氏伝説が残る。尊氏は南北朝時代、戦いに破れ九州へ落ち延び、寺境内の「隠れ穴」に潜んでいたとされる。再起を図る彼は、蕾のある桜の枝を伐り、地に挿し、戦運を占ったと伝わる。
今宵一夜に咲かば咲け咲かずば咲くな世も墨染の桜かな
すると、一夜にして花が咲いた「墨染の桜」の伝えを残し、西国の軍勢を引き連れて京に攻め上り、室町幕府を開いたとされる。足利歴代将軍は「京都北小路室町」に住んだことから「室町殿」と呼ばれ、時代も「室町」となり230余年を足利幕府が支配した。
そして3代将軍義満の時に「北山文化」が栄え、8代将軍義政の時代に「東山文化」が成熟、文化の民衆化と地方への普及が進んだとされる。まさに「文化」の「基」は室町。
ところで地名から探る「室町」は、日本橋室町(東京都中央区)をはじめ大阪府池田市、滋賀県長浜市、栃木県栃木市、神奈川県秦野市、新潟県新潟市、岐阜県岐阜・大垣市、愛知県豊田・西尾市、香川県高松・坂出市、愛媛県松山市そして福岡県北九州市に「室町」の地名がある。北九州(旧豊前国)の「室町」は、紫川の河口に位置、川に架かる常盤橋は九州の玄関口で、五街道(長崎・中津・秋月・唐津街道、門司往還)が延びる起点でもあった。小倉藩時代から多くの人が行き交う商人の町であった。元来、小倉の町づくりは細川忠興によって京都を模してつくられたといわれる。にぎやかな小倉祇園太鼓、小文字焼きしかり、おごそかな連歌も伝わっていたとも聞く。京の文化が九州の小倉で花開いたといっていい。
さらに京の地名が小倉藩の各地に付けられたとされ「室町」もその一つのようだ。こうして見てくると「時」も室町「地」も室町がキーワードになって文化が生まれている。
北九州の「室町」を追ってみると、江戸時代の天文・地理・測量学者の伊能忠敬(1745~1818)やドイツの博物学者シーボルト(1796~1868)が古文書に登場する地。さらに明治4年(1872)の廃藩置県で小倉県が設置された際、県庁が置かれた場所であった「室町」は、人の往来が盛んだった。時代が変わっても小倉城があり、紫川が海に注がれる地としてある。由緒ある地を再認識する時ではなかろうか。今、太宰府天満宮の「梅ヶ枝餅」に対して八坂神社の「室町がらミ餅」誕生に向けての動きがあると聞く。
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by inakasanjin
| 2023-09-15 09:00
| 歴史秘話
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2023年 09月 08日
「みやこ町」を「ミャーコ町」へ
おもしろい新聞記事を読んだ、と言えば「どんな?」と返ってくる。各自治体は地域振興にいろんなアイデアを練る。記事は、地域の皆が楽しめそうな「みやこ町」を「ミャーコ町」いわゆる「猫の町」にしょう、という「歴史に基づいた」取り組みを記したものだ。
みやこ町の「猫」を追って見た。平安時代、薬師寺の僧景戒が弘仁年間(810~24)に「善悪の行いは仏力によって報われる」を説いた日本最古の説話集『日本霊異記』に「猫の記録」を載せている。それは「豊前国宮子郡の小領・膳臣廣国(かしわでのおみのひろくに)」の話。彼が「冥界訪問」(臨死体験)の時、亡き父との再会で「猫」が登場する。
話は「生前、悪行を重ねた父が飢えに苦しみ、息子の家を大蛇や犬の姿で訪ねるが、家に入れず、空腹を満たせない。ところが猫の姿になると家に入れた」との語り、で歴史上「猫」記述の最古だとされる。廣国が豊前国庁の官僚(次官級)で「宮子郡=京都郡」の暮らしの中での体験談と想像できる。貴重な生き物の「猫」の舞台は「宮子」の地だったようだ。それに「膳臣」は天皇家の食膳を司る氏族として食材貢納に従事していた。奈良の正倉院に残る豊前国の記録「大宝2年(702)の戸籍」には「膳系の名」が記さている。
もう一つの猫の話は『吾輩は猫である』の夏目漱石が、生涯の師弟だったドイツ文学者・小宮豊隆(1884~1966/みやこ町出身)に宛てて『吾輩』の死亡通知(ハガキ)を送っている。明治41年(1908)小宮に届いた漱石からの「死亡通知」は次の通り。
辱知猫義久々病氣の処療養不相叶/昨夜いつの間にかうらの物置の/
ヘッツイの上にて逝去致候/埋葬の義は車屋をたのみ/
箱詰にて裏の庭先にて執行仕候。/但主人「三四郎」執筆中につき/
御会葬には及び不申候 以上/九月十四日
このハガキは、小説『三四郎』のモデルと言われる小宮豊隆の遺族が、豊隆没後、平成8年(1996)に蔵書や手紙など多くの遺品を郷里に寄贈した中にある。
みやこ町の財産として「みやこの歴史発見伝」には、平安時代と明治時代の「猫」は、地域の貴重な財産として紹介されている。歴史に郷土を「語るもの」があるとするなら、それは皆とともに伝え、広めていきたい。もしかしたら猫の原郷は「ミャーコ」かも知れない。
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by inakasanjin
| 2023-09-08 09:00
| 田舎日記
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