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 令和4年(2022)春、NHKスペシャル「戦後ゼロ年・東京ブラックホール」を観ていて驚いた。番組の中で「もう1つの玉音放送」として昭和天皇のお声が流れた。昭和21年(1946)5月24日に「食糧問題に関するお言葉」をラジオで国民に呼びかけられた。皆が食糧難に苦しんでいる。それぞれが、お互いに助け合う内容だった。


 祖国の再建の第1歩は、国民生活とりわけ食生活の安定にある。戦争の前後を通じて、地方農民は、あらゆる生産の障害とたゝかひ、困苦に堪へ、食糧の増産と供出につとめ、その努力はまことにめざましいものであったが、それにもかゝはらず、主として都市における食糧事情は、いまだ例を見ないほど窮迫し、その状況はふかく心をいたましめるものがある。(略)全国民においても、乏しきをわかち苦しみを共にするの覚悟をあらたにし、同胞たがひに助けあって、この窮況をきりぬけなければならない。(略)国民にこれを求めるのは、まことに忍びないところであるが、これをきりぬけなければ、終戦以来全国民のつゞけて来た一切の経営はむなしくなり、平和な文化国家を再建して、世界の進運に寄与したひといふ、わが国民の厳粛かつ神聖な念願の達成も、これを望むことができない。(略)国民が家族国家のうるはしい伝統に生き、区々の利害をこえて現在の難局にうちかち、祖国再建の道をふみ進むことを切望し、かつ、これを期待する。


 昭和20年8月15日はポツダム宣言を受諾。天皇は「終戦の詔書」をラジオで伝えた。


 朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ(略)各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戦局必スシモ好轉セス

世界ノ大勢亦我ニ利アラス 加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所眞二測ルヘカラサル二至ル(略)朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス 朕ハ茲ニ圀體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ(略)宜シク舉國一家子孫相傳へ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ(略)爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ。


 天皇の人間宣言(昭和21年1月1日)前と後、2つの玉音放送を改めて考える。

     









# by inakasanjin | 2023-01-06 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)

 日々の生活の中、ふっと口ずさむ歌がある。アカシアの雨…だ。哀愁をおびた歌唱による西田佐知子(1939~)の独特なハスキーボイスは忘れがたい。

 アカシアの雨がやむときは昭和35年(1960)に発売されたシングルレコードだが、当時、A面B面には異なる歌手の歌が収録されていた。このレコードの片面は原田信夫「夜霧のテレビ塔」だった。ポリドール・レコードからの発売だがレコード・ジャケットの名は「西田佐智子」となっている。

 それはともかく当時は、安保反対の国会デモ中、東大の女子学生・樺美智子さんが死亡、社会党の浅沼稲次郎が刺殺されるなど社会不安が続く。この歌は60年安保の世相を反映するテーマ曲となって広く浸透し始めた。西田の名も佐智子から佐知子へ修正された。歌は、昭和37年の第13回NHK紅白歌合戦に初登場、日本レコード大賞ではロング・セールが評価されて「特別賞」を受賞。日米安保闘争で闘い疲れた若者に共鳴したのであろう、ちょっと投げやりなボーカル、詞と曲が心に沁みた。そんな時代を代表する歌になった。


  アカシアの雨にうたれて このまま死んでしまいたい 

  夜が明ける 日がのぼる 朝の光のその中で 冷たくなった わたしを見つけて 

  あの人は 涙を流して くれるでしょうか

  アカシアの雨に泣いてる 切ない胸はわかるまい 

  思い出の ペンダント 白い真珠のこの肌で 淋しく今日も あたためてるのに

  あの人は 冷たい瞳をして 何処かへ消えた

  アカシアの雨がやむとき 青空さして鳩がとぶ

  むらさきの 羽の色 それはベンチの片隅で 冷たくなった わたしのぬけがら

  あの人を さがして遥かに 飛び立つ影よ


 この歌、作詞・水木かおる、作曲・藤原秀行だが、青江三奈、藤圭子、ちあきなおみ、戸川純、小林旭、氷川きよしなど多くの歌手のカバーある珍しい楽曲だ。紅白には20回(1969)に再登場。その年は全共闘安田講堂事件、翌年は大坂万博、よど号事件、三島由紀夫割腹自決などの年。あの時代、心の揺れの激しい10年余だったが、歌が心を映す鏡でもあった時代。戻せるものなら時を戻したい。


# by inakasanjin | 2022-12-30 09:00 | 田舎日記 | Comments(0)

 令和4年(2022)10月10日、午後6時半から2時間余、福岡県行橋市JR新田原駅前の「ライブハウスMr・K」で弟の想い出ライブが開かれた。水の事故で昭和27年(1952)6月に亡くなった弟・博海の70年目の追慕ライブになった。感謝この上ない。


 このライブは「Mr・K」オーナーの下宮弘樹さん(61)晴美さん(60)夫妻と松本昌樹毎日新聞記者(59)新森真理子さん(55)のプランで、夏、話が持ち込まれた。とても有り難いことだった。5年前、山の事故で亡くなった下宮さんの長男・圭太郎君の名を刻む「Mr・K」は、昨年オープンしたライブハウス。そこで、音楽好きの松本さんや新森さんらの交流の中、平成18年(2006)に『ふるさと私記』出版会で初披露された新森さんの「れんげ草」を題材にした「ふるさとへ辿る道」の曲が話題になった。


 彼女の音楽ライブでは、これまで「れんげ草」朗読後に「ピアノ演奏で曲を歌っています」と訊いて驚いた。その曲を中心に話がまとまったようだ。そして参加者は私を含め一四名のミニライブになった。タイトルは「朗読と音楽の夕べ~『ふるさと私記』が記した思い」と題して1部は、語り手として「れんげ草に寄せて」で、弟への思いと自らの来し方を伝えた。

 2部は、『夏休み』、『少年時代』、『涙そうそう』、『哀愁華』の歌と演奏が行なわれた。

 そして『ふるさとへ辿る道』は、晴美さん朗読の後、新森さんのピアノ演奏で松本さんが歌った。歌詞の中にある「(略)今年もまた/新緑の季節を連れてくる/柔らかな陽だまりの中で/よみがえるのは君の面影(略)心に眠る懐かしい場所/瞳とじれば/そういつもそばにある(略)」では、しみじみと弟への想いが蘇った。最後は全員で「ふるさと」を合唱して幕を閉じた。


 ライブの中で、新森さんは、この優しいメロディーの曲誕生秘話を語った。

 「あの時は、私のどん底でした。父の看病や家庭内のゴタゴタ、部屋でひとり、電気を消して、静かに思いを馳せていた時、不思議に、すーっと曲がおりてきたんです」といい、また「多くの曲を作ってきましたが、これは、決して忘れることのできない曲なんです」という。

 さらに「この曲を、いつか関係者の方々と共に、演奏、歌ってみたいという夢を持ち続けてきました。今日、その夢が叶いました」とも語った。


 十日のライブは、十三人とともに聴くことができた「新森さんの夢」に、ただ感謝しかない。ありがとうございました。


# by inakasanjin | 2022-12-23 09:00 | ふるさと京築 | Comments(0)

求菩提の里の男ふたり

 福岡県豊前市といえば修験の求菩提山(782㍍)がシンボル。穏やかな山容に親しんで人は育つ。大らかな気風、求菩提の里の大河内と久路土に生まれた男2人を追ってみる。


 川のせせらぎが届く静かな大河内の医家の末っ子として明治31年2月5日に生まれた大辺男(おおべますお)は、幼い頃から「草芝居の役者の動作や物まねがとても上手」で合河(ごうがわ)小、中津商業を中退する16歳まで大河内で過ごした。後、明治屋に就職するが、芸の道を捨てきれずに新国劇の俳優養成所に入り室町次郎として活躍。大正15年(1926)日活に入社。芸名を郷里の「大河内」を採って大河内伝次郎(1898~1962)とした。

 映画界に監督と俳優が組んで新風を起こしたのは、戦後は黒澤明と三船敏郎、戦前は伊藤大輔と大河内伝次郎と言われるまでになった。俳優として大きく飛躍した。彼の決めゼリフは「シェイハタンゲ(姓は丹下)ナハシャゼン(名は左膳)」だった。スピード感ある殺陣演技と独特な押しつぶした枯れ声での台詞は一世を風靡、時代劇の大スターに押し上げられて行った。まさに彼は自らの名の通り「たいへんなおとこ」になった。


 黒土村の大庄屋で村長の長男として明治31年2月11日に生まれた島田義文は、裕福な家庭に育ち、中津中時代は若山牧水に心酔。早大に入学後は浅沼稲次郎らと行動をしながら童謡や詩を文芸誌に投稿。大正11年、野口雨情の門を叩いてから島田芳文(1898~1973)として本格的に歌の道を歩き始めた。

 昭和6年(1931)には作曲家の古賀政男と歌手の藤山一郎とのコンビで発表した「キャンプ小唄」「スキーの唄」とくに「丘を越えて」は大ヒット曲になった。国民に親しい「丘を越えて」のメロディーは、道行く街角からよく耳に届いたそうだ。彼は「6人の子に童謡を作っては聞かせていた」り「暗い時代ではあったが、楽天家でユーモアに溢れ、夢を持った頼れる夫だった」と語っていた夫人の言葉を思い出す。

 戦後は郷里で農業をして暮らした。ヒット曲の「丘を越えて」の詩碑は北軽井沢、多摩丘陵、豊前の生家の3ヵ所に、1人の〝作詞家〟の証として建っている。


 大河内と島田は誕生日も1週間違い。歩んだ道はそれぞれ違うが、その道では名を成した〝大人物〟として国民に認められた。大河内の生家・大辺家跡には空に向かって広葉杉(県指定天然記念物・樹高30㍍余)が聳え立つ。2人の真っすぐに生きた姿を見るようだ。


# by inakasanjin | 2022-12-16 09:00 | ふるさと京築 | Comments(0)

105歳の大往生 

 日本最高齢現役医師であり医学博士の日野原重明さん(1911~2017)は「98歳で俳句を創めました」といい、これまでの作品を厳選、纏めて句集『10月4日104歳に104句』を出版した後、2017年7月8日に105歳の大往生を遂げた。


 日野原さんは、山口県吉敷郡下宇野令村(現山口市)生まれのキリスト教徒。父親の転勤で大分、神戸に住む。昭和7年(1932)京都大医学部に入学、後、結核に罹患し広島、山口で闘病生活。病気完治後、昭和16年、聖路加国際病院の内科医に就く。国際基督教大教授を4年務め、石橋湛山首相の主治医ともなる。特異な体験として昭和45年のよど号ハイジャック事件に遭遇、韓国の金浦国際空港で開放されるが、犯人らからは信頼される乗客だったという。医学の道では予防医学に取り組み「人間ドッグ」を提唱、開設。また「成人病」の名称を「生活習慣病」に改め、普及させるなど医療改善を推進した。

 平成17年(2005)には文化勲章を受章。そして高齢者が活躍できる社会の在り方を提言し「新老人」を提起『生きかた上手』がベストセラーになるなど、高齢化社会を豊かに生きるを象徴する人であった。とにかく「死をどう生きるか」を問い続け、伝え続けて「生きる」意味を考えさせた。紡がれた詞は笑えて泣ける、元気になれる1冊だ。


  ヘリに乗りマンハッタン見下ろす百二歳   私には余生などないよこれからぞ

  もみじの手ひ孫に送る俳句かな       患者への癌の告知はアートなり 

  生き方は人間のみが変えられる       百三歳馬に跨る我が勇気

  若者に分かりやすく医学を語る       百四歳長い道にもまだ何か


 彼のエッセイ≪105歳、私の証あるがまゝ行く≫の最終回に「自宅の庭には、妻の遺骨がほんの少しばかりまかれています。亡き妻はここに静かに眠っていると思います。私の名を付けた深紅の薔薇「スカーレットヒノハラ」と、妻の名を付けた淡いクリーム色の「スマイルシズコ」も今頃、長野の公園で花を咲かせていることでしょう」と記す。


 日野原さんは、カナダの医学者ウイリアム・オスラーの「医学は科学に基づくアートである」が座右の銘という、が、彼の生涯は、まさに「人間、生きることがアート」である実践者だったと言っていい。人生を謳歌する、楽しむことを優しく伝えてくれた人だ。


# by inakasanjin | 2022-12-09 09:00 | 田舎日記 | Comments(0)