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 郷土の京築地域や北九州の言葉は、案外、聞き取り易いようだ。友が帰省して喋る時は、いつもお互い、昔に還り、方言での喋りを楽しんでいる。50音の方言、を拾う。


  〖あ〗あげな〖い〗いさる〖う〗うたちぃ〖え〗えれぇちゃ〖お〗おらぶ

  〖か〗かべちょろ〖き〗きびる〖く〗くらされる〖け〗けたぐる〖こ〗こまめ

  〖さ〗さんのーが〖し〗しゃーしい〖す〗すらごと〖せ〗せ~の〖そ〗ぞろびく

  〖た〗たまがる〖ち〗ちゃーらん〖つ〗つまらん〖て〗てぃがてー〖と〗どんべ

  〖な〗なんかかる〖に〗にくせぇ〖ぬ〗ぬすくる〖ね〗ねぶる〖の〗のぉせぇ

  〖は〗はぶてる〖ひ〗ひんこない〖ふ〗ふんじょる〖へ〗へる〖ほ〗ほげる

  〖ま〗またごす〖み〗みずや〖む〗むげねぇ〖め〗めんどしい〖も〗もうがんこ

  〖や〗やおない〖ゆ〗ゆわん〖よ〗よっちょくれ

  〖ら〗らくちゃ〖り〗りこう〖る〗るすしちょる〖れ〗れいちゃ〖ろ〗りくなこと

  〖わ〗わっきゃがる〖ゐ〗ゐぬる〖ゑ〗ゑれーし〖を〗をいぼれ〖ん〗そーなん


 方言は各地の特徴を際立たせ、味わいを持つ。ところで「すごい」という言葉が全国47都道府県で全て違うという「すごい」記述を目にして驚いた。すごい、を拾う。


 〖北海道〗なまら〖青森〗わや〖岩手〗らずもね〖宮城〗いぎなり〖福島〗ばげぇに

 〖秋田〗しったげ〖山形〗すこだま〖東京〗べらぼう〖神奈川〗すっげぇ

 〖栃木〗まっさか〖群馬〗なっから〖千葉〗のぉほど〖埼玉〗いら〖茨城〗うんと

 〖愛知〗でら〖岐阜〗でぇれぇ〖静岡〗がんこ〖石川〗まんで〖富山〗なんちゅう

 〖新潟〗ごぉぎ〖山梨〗だたら〖長野〗えれぇ〖福井〗ひっで〖京都〗えろぉ

 〖大阪〗めっちゃ〖兵庫〗がっせえ〖滋賀〗えらい〖奈良〗ごっつぅ

 〖和歌山〗やにこぉ〖三重〗むっちゃ〖島根〗まげに〖鳥取〗がいな〖広島〗ぶち

 〖岡山〗ぼっけぇ〖山口〗ぶり〖徳島〗ごっつい〖香川〗ものすご〖愛媛〗ほぉとぉ

 〖高知〗こじゃんと〖福岡〗ばり〖佐賀〗がば〖長崎〗いじ〖熊本〗たいぎゃ

 〖大分〗しんけん〖宮崎〗てげ〖鹿児島〗わっぜぇ〖沖縄〗でぇじ


 郷土それぞれ、地域それぞれ、言葉それぞれ、人それぞれ、だから面白いのだろう。



# by inakasanjin | 2022-02-04 09:00 | 田舎日記 | Comments(0)

国分寺と安国寺

 日本では538年の仏教伝来以降、遣隋使や遣唐使などを通して大陸の仏教文化を知り造寺の機運が高まった。寺は、自宅に持仏堂を造り、家の繁栄と子孫安泰を願う私宅寺院とした蘇我稲目の「向原寺」が最初だった。そして聖徳太子が父のために「法隆寺」曽我氏も「法興寺」を建立して仏法の興隆を図った。後、全国規模で寺院建立が進められた。


 国分寺は、奈良時代の天平13年(741)に聖武天皇(701~56)が仏教による国家鎮護のために日本の各国に国分寺と国分尼寺の建立を命じ創建された寺院である。

 天皇の「国分寺建立の詔」は、国に七重塔を建て、僧寺と尼寺を設置、名称は金光明四天王護国之寺(国分寺)と法華滅罪之寺(国分尼寺)とする。さらに寺の財源には僧・尼寺ともに田十町(10㌶)を施す、ただし僧は20人、尼僧は10人を置くこととするなどが定められた。奈良の東大寺を総国分寺、法華寺を総国分尼寺の総本山と位置づけて畿内に5、東海道に15、東山道に8、北陸道に7、山陰道に8、山陽道に8、南海道に6、西海道に9、それに壱岐と対馬には島分寺が置かれ、全国68カ所に建てられた。ところが国家事業として推進したにも拘らず、律令体制が衰退していくにしたがって官の支援が無くなると、平安時代末頃までには、ほとんどの寺が消滅していった。


 安国寺は、足利尊氏(1305~81)が延元元年(1336)に九州から東上、楠木正成を破って武家貴族として室町幕府(足利幕府)を創始するが、後、臨済宗の禅僧・夢窓疎石(1275~1351)の勧めにより、弟の直義(1307~52)とともに国家安寧を祈願、南北両朝の戦没者の菩提を弔うために延元3年から10年余をかけて聖武天皇の国分寺に倣って全国66カ国2島に1寺1塔(安国寺/利生塔)を設けた。そこに朝廷から賜った仏舎利も納めた。が、暫くして歴史上最大かつ最悪という尊氏と直義の兄弟喧嘩〝観応の擾乱〟が起こり、混乱するが、3代将軍義満になって世の中が落ち着いた。


 足利の世は続いたが、元亀4年(1573)15代将軍義昭が織田信長によって京都から追放された。室町幕府は終焉を迎えた。足利の滅亡によって文化的、政治的意義の大きかった安国寺と利生塔も衰退の一途を辿るしかなかった。盛者必衰の習い、か。

 現在、全国のお寺さんは77254寺院。日々、御仏の前で手を合わせる姿がある。


# by inakasanjin | 2022-01-28 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)

 ものごとの最初だとか、最古だとか、というと尊厳、魅惑の想いが生まれる。太古の日本では,ものごとは人の記憶で口承するしかなかったが、文字が伝わり、人に伝える術を知った。8世紀初頭に成立した『古事記』は日本最古の文献である。神話、伝説、歌謡などで国の成り立ちなどを伝える書物。太古の神々が唱えた〝歌〟が数多く収められている。

 須佐之男命(スサノオノミコト)がヤマタノオロチを退治して櫛名田比売(クシナダヒメ)と結ばれ、出雲の地に新宮を造った折に詠まれた〝歌“が日本最古の和歌と言われる。


   八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

   (夜久毛多津 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曽能夜幣賀岐袁)


 平安時代の歌人・紀貫之(868~946)は、この歌を「人の世となりてスサノオノミコトよりぞ三十文字あまり一文字は詠みける」と和歌の起源と断定。そして出雲の地が発祥と伝わる。因みに「和歌の俳句化」なのか、形式変化で俳句が詠まれた。近江国(滋賀県草津市)出身の戦国時代の連歌師・山崎宗鑑(1465~1554)の句が始まりという。


   貸し夜着の袖をや霜に橋姫御


 京都宇治川に架かる橋のたもとに橋をまもる女神がいた伝説を詠んだようだ。

 次に世界最古の〝歌〟はデンマーク国立博物館所蔵の「セイキロスの墓碑銘」だそうで、墓石に完全な形で残る楽曲だと言う。墓石はトルコの都市アイドゥン近郊で発掘され、紀元前2から紀元後1世紀頃のものとされる。石には「わたしは墓石です。セイキロスがここに建てました。決して死ぬことのない、とこしえの思い出の印にと」記されている。

 2千年を超えて「歌詞と音符が刻まれた墓碑」が伝わる凄さを思う。詞を見る。


   生きている間は輝いていてください  思い悩んだりは決してしないでください

   人生はほんの束の間ですから     そして時間は奪っていくものですから


 これは「セイキロスが妻のエウテルぺに捧げた楽曲」だと考えられている。また世界最古の詩は、紀元前3千紀のシュメール(現イラク)の『ギルガメシュ叙事詩』で古代メソポタミアの伝説的な王をめぐる物語と言われる。遺された言葉は、悠久の時の海を漂い、人の証を伝える。先祖から伝わり、子孫に伝えることは、永遠を自覚しての伝承になる。


# by inakasanjin | 2022-01-21 09:00 | 文学つれづれ | Comments(2)

 福岡県みやこ町の平成筑豊鉄道「犀川駅」前に、気軽に立ち寄れる古民家カフェ「アンノラ」が、令和3年、秋、オープンした。古民家を借り、洒落た「文化スペース」を誕生させた若者は、過疎化の故郷を再興できれば、との願いから関西での仕事を切り上げて帰郷。宅地建物取引士の国家資格を取得するなど不動産会社の起業に併せて「カフェ経営」もスタートさせた。古民家再生は自力改装。床や天井、壁のリフォームは独学。柱や梁に柿渋を塗り、壁は漆喰で「現代古民家」に仕上げた。客席は16席、カウンターやテーブルなどはDIY(日曜大工)での自作。またアンティーク調度は寄贈によるものや譲り受けたものなどで配置を完成。特にサイクリング愛好家などに、ちょい寄り「コーヒーの立ち飲み、角打ちコーナー」を設けるなどの配慮。

 そんなこんなの気遣い店主は、京都からのUターン青年の岩村宗一郎君(27)だ。彼は茶道・藪内流の茶人でもある。郷土愛の深い若者だ。


 ところで文化はくり返されるというが、「角打ち」文化の発祥は北九州と言われる。

 明治34年(1901)創業の官営八幡製鉄所などで働く労働者や門司港などの港湾での沖仲仕が、仕事帰りに酒屋に立ち寄り、店の一角に設けられたカウンターテーブルで、量売りされた日本酒を「枡の角に口をつけて飲む」や「店の隅(角)で飲む」習慣が「角打ち」の由来とされる、が、定かではない。そうした1日の勤めを終え、ひとときの安らぎの「角打ち」が全国に広まって定着したようだ。


 日本人にとっては「無事に終わった1日」の「夕」が「角打ち」のようだ。これに対してヨーロッパは「エスプレッソ」ではなかろうか。エクスプレス(急行)が名の由来とされるエスプレッソは、コーヒー豆を極細挽きにし、高い圧力をかけて短時間で抽出、心地よい苦味と濃厚な風味を持つイタリア生まれの飲みモノで、朝、仕事に出かける前や食事の後に、小さなカップでぐ、ぐいっと2,3口飲んで出かけるのが通だそうだ。だとすると、西洋人の「1日の無事を」願う「朝」が「エスプレッソ」になるのだろう、か。どちらにしても「1杯ひっかける」生活のケジメではあるようだ。


 人間の根源的な「仕草」は、そんなに違いは無いようだ。わが農耕民族の生き方は野良仕事が基本になる。店名の「Annola(アンノラ)」は、「庵」と「野良」をヨーロッパ風に命名。宗一郎君は、思う。「ここが若者の〝旅の目的地〟であってほしい」と。


# by inakasanjin | 2022-01-14 09:00 | ふるさと京築 | Comments(0)

 日本の短詩形文学は、5・7・5、17音の「俳句」と5・7・5・7・7、31音の「短歌」といわれるが、8・8・8・6、30音の「琉歌」も加えていいようだ。

 琉歌は、沖縄本島を中心に音楽と舞踊とが結び付き発達。16世紀頃成立といわれ、貴族から遊女まで階層、性別を問わず幅広く親しまれる歌。古琉歌集は「歌う歌」として編集されているが、後には「読む歌」としても編まれている。歌は、女性の心を通して結晶したものに秀作が多いとされる。それで琉歌の歴史を繙くと、まず2人の女性が登場する。

恩納岳の麓にある農家の娘・恩納なべ(ナビ―/生没年不詳)と那覇の遊郭に生きた吉屋チル―(よしや/1650~68)である。王国時代の女流歌人として並び称される。

 恩納なべには、琉球国王が巡視の折や清の使節の巡察の際などに詠んだ歌が遺る。


   波の声もとまれ 風の声もとまれ 首里天がなし 美御機拝ま

   恩納松下に 禁止の碑たちゅす 恋しのぶまでの 禁止や無いさめ

   恩納岳あがた 里が生まり島 森ん押し除きてぃ 此方なさな


 吉屋チル―には、遊郭に売られ行く時、嘉手納と読谷に架かる橋で詠んだ歌が残る。


   うらむ比謝橋や 情け無いぬ人の 我身渡さと思て 架けて置きやら 


 沖縄では、恩納と吉屋は双璧をなす女流歌人として伝わり「琉歌碑」も共に建つ。

 近年「琉歌」が話題になったのは、平成31年(2019)2月24日の「天皇陛下在位30年記念式典」で沖縄出身の歌手・三浦大知さん(1987~)が「歌声の響」を謳ったことだ。この歌は、明仁上皇が皇太子時代の昭和50年(1975)に沖縄県を初訪問された時、名護市の国立ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」を訪ね、入所者1人1人と交流された後、両陛下の帰り際、入所者から船出を祝う沖縄民謡「だんじょかれよし」の合唱が自然に沸き起こった。真夏の炎天下の中、お2人は立ち止まったまま聴き入られたという。

 陛下は、見送られた折の光景を「琉歌」に詠まれて「愛楽園」に贈られた。


   だんじょかれよしの 歌声の響 見送る笑顔 目にど残る

   だんじょかれよしの 歌や湧上がたん ゆうな咲きゆる島 肝に残て


 上皇后美智子さまは、この「琉歌」に相応しい曲を付けられ「歌声の響」が生まれた。


# by inakasanjin | 2022-01-07 09:00 | 文学つれづれ | Comments(0)