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自死した夭折詩人ふたり


 戦後詩の歩みは原口統三(1927~1946)からと云われる。彼は『二十歳のエチュ―ド』を遺して1946年、伊豆海岸で入水自殺。19歳だった。3年後、原口に心酔、憧憬の念をだいて詩を綴っていた長沢延子(1932~1949)は『海―友よ私が死んだからとて』を残し、女学校卒業間もなく服毒自殺。17歳の命を絶った。ともに生前執筆の「稿」は死後、遺著として刊行。自死した夭折詩人ふたりの「著書」は反響を呼んだ。

 原口は朝鮮半島(ソウル)で生まれ、旧満州国を転々とした後、旧制一高に入学し清岡卓行らと親交を深め、ランボーに傾倒する詩人だったが友も少なく孤独だった。自死後、一高制帽と「原籍 鹿児島市滝尾町五番地(略)」と記す「死人覚え書」が発見された。

 (略)ところが今日、僕はふと「寒い」と思ったのだ。僕はきっと夢を見て来たのに違いない/自己の思想を表現してみることは、所詮弁解にすぎない/表現は畢竟、それをうけとる人間にとって、年と共に姿を変えてゆくところの品物に過ぎない/告白―僕は最後まで芸術家である。いっさいの芸術を捨てた後に、僕に残された仕事は、人生そのものを芸術とすること、だった/論理は、必ず逆襲できるし、破壊することも可能である/僕の名を忘れて立ち去るだろう(略)(『二十歳のエチュード』から)

 長沢は群馬県桐生市で生まれ、4歳で母と死別、12歳で伯父の家の養女として戦時の動乱期を生きた。桐生高女時代「原口統三」に恋い焦がれ「暗い谷間に自分自身の身を沈めることによってこの谷間を埋める」と記して自殺。生家と養家の2つの墓に眠る。

 白い乳房のひそやかにうずく/初夏の胸寒い夜/幼ない指で若さをかぞえてみる/ああ遠い荒原に足音がきこえ/もたらされるものは/甘いやさしい夢ではない/私はシャツの暖かみから/乳房を離して/あらわな白い塊に/遠いひびきをしみこませるのだ/やがて風の訪れに/―私の乳房は/血に染んでたおれるだろう/それでもいい/暗い荒原の風をおもいながら/ゆれ動く乳房はかすかにうずき/今宵ものかげを離れようとする(『海―友よ私が死んだからとて』―16歳作の「乳房」から)

 彼と彼女は、若くして「この世におサラバ」し「あの世で逢う」ことができたであろうか、もし想いつながる運命(さだめ)なら空から谷間に光が射しこんできただろう。

# by inakasanjin | 2023-11-10 09:00 | 文学つれづれ | Comments(0)



 120年の時を経てラフカディオ・ハーン(小泉八雲1850~1904)と友枝高彦(1876~1957)師弟の姿が現れた。友枝が熊本五高時代にハーンの英語授業を克明に記したノートが見つかり、それが2013年、平川祐弘監修『ラフカディオ・ハーンの英語教育―友枝高彦・高田力・中土義敬ノートから』(弦書房)として刊行された。
 友枝ノートは、コピーのない時代、高田が書き写し、さらに中土が写した。ハーンに繋がる3人の連携によって生まれた知のリレー直筆の貴重な遺産であり、富山大学に所蔵されているハーンの旧蔵書「ヘルン文庫」に眠っていたものである。

 友枝は福岡県上毛郡大村(現豊前市)に生れ、旧制豊津中(現育徳館高)から第5高(現熊本大)に入学。時の校長・嘉納治五郎(1860~1938講道館柔道の創始者)に影響を受け「魂の親」として敬慕。そのような中でハーンの授業を受けた。後、東京帝大哲学科に入学、倫理学の研究を深めた。明治34年(1904)日露開戦に当たって政府は末松謙澄男爵(福岡県行橋市出身)をイギリスに派遣、その秘書官として友枝を随行させた。自由主義、民主主義を学んだ後、再びアメリカ、イギリス、ドイツへの留学を命じられベルリン大学などで3年間、多くの学者らと交流。帰国後は嘉納の勧めで東京高等師範学校(現筑波大)の教授に就き、東京文理大、日本女子大教授などを兼任した。教育者として多くの秀才を薫陶、ドイツの諸大学への講演、国際会議には日本代表として出席した。
 彼は面倒見のよい人物と云われ、教え子や多くの学生らが家に出入りした。とくに画家の東山魁夷は公私ともに可愛がられ、郷土出身の彫刻家中野素昂も世話を受けたそうだ。また彼は、戦後一時期、帰郷。郷里に役立てばと農協組合長や小学校PTA会長を引き受けた。学問と人徳を備えた人物だった。が、戦後の混乱を座視出来ず上京。彼の「社会奉仕の精神」を実践する「社会道徳協会」を組織、推されて会長となり「社会倫理学の先駆者」と呼ばれるようになった。昭和30年(1955)には都留文化短期大の初代学長になるなど日本の倫理学者として活躍した。著書は『女子修身』『中学修身』『師範修身』などがある。彼の生き方は「常に民衆の側に立ち苦難を救おうとした友枝家の伝統」に因ると云われる。父・速水が開いた豊前の天地山公園に素昂作の「高彦銅像」が建つ。


# by inakasanjin | 2023-11-03 09:00 | ふるさと京築 | Comments(0)

見えない糸は赤い糸


 言葉の海で「赤縄(せきじょう)」を拾った。言葉を追ってみる。意味は「男女の足を人間には見えない赤い縄で結ぶ」とされ「夫婦を結びつける縁」だそうだ。
 この珍しい「中国」の「縄」が日本では「糸」になったようだ。その由来を辿る。

 赤い縄の話は、九世紀の中国、唐時代の伝記小説集で李復言『続玄怪録』に因る。
 話は、早朝の暗いうち、韋固という人物が、月明かりの下で書籍を見ている不思議な月下老人に出逢う。その書籍は天界で決まった結婚名簿だそうで、見えない赤い縄で男女の足を結び、繋がれた2人は、どんな障害があろうとも必ず結ばれるという。そこで、韋固は老人に「それでは私の嫁はどこに」と尋ねると「市場にいる老婆に背負われた幼女」と答えた。探すと貧乏な家の娘だった。なので、居なくなれば運命は変わるだろうと、下人に殺害を命じた。しかし眉間に傷を負わせただけで逃げられた。時が経ち、上司に嫁を紹介されて結婚した。すると嫁の眉間に傷があった。理由は「幼い頃、傷つけられたものです」と答える。
 韋固は、長い年月を経て、繋がった運命に驚き「赤い縄」の存在を信じるしかなかった。

 我が国の江戸時代、将来を誓い合う男女には「指切り」の風習があった。それは遊女が情愛の深さを表し、不変の愛を誓う証として意中の人に指を切って渡すことに由る。
 そして赤色を考察すると、仏教では仏の徳を表す五色(青・黄・赤・白・黒)の一つにあり、人体に流れる血の色でもある、それとキリスト教でもイエスの流した血は、神の愛、罪と救いとされ、赤は聖なる色としてあるようだ。それに約束を守る「指切り」が「左手の小指に赤い糸」を結んで永遠の愛を誓うことに繋がるようで「指切りげんまん 嘘ついたら 針千本飲ます 指切った」が遺っているようだ。こうした日本の風習に中国故事が添って「縄」が「糸」になり、聖色の「赤」が重なったのであろう。あかの句と歌を掬う。

   あかあかとあかあかあかとまんじゆさげ     角川春樹
   あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月  明惠上人

 長崎ランタンフェスタでは、月下老人の傍に白い糸が並び、それに若い女性が赤い糸を結ぶ「良縁祈願」の姿があるという。赤い糸を想い人に繋ぐのだろう。天界では糸の先は決まっているようだが、現世では人に見えないからこそ運ばれる命を尊ぶのだろう。


# by inakasanjin | 2023-10-27 09:00 | 田舎日記 | Comments(0)



 父が、平成2年(1990)9月9日に亡くなって、今年、33回忌になる。母は97歳で健在。夫の33回忌ができる妻もそういないだろう。亡くなった人が極楽浄土に導かれるのは13仏の守護仏に由るといわれる。葬儀を終えて、初7日から33回忌まで、それぞれ仏と菩薩が「忌日」の追善供養を司るとされる。その13仏を追ってみる。

▼不動明王(ふどうみょうおう)―初7日(しょなぬか)7日目▼釈迦如来(しゃかにょらい)―27日(ふたなぬか)14日目▼文殊菩薩(もんじゅぼさつ)―37日(みなぬか)21日目▼普賢菩薩(ふげんぼさつ)―47日(よなぬか)28日目▼地蔵菩薩(じぞうぼさつ)―57日(いつなぬか)35日目▼弥勒菩薩(みろくぼさつ)―67日(むなぬか)42日目▼薬師如来(やくしにょらい)―77日(なななぬかー満中陰)49日目▼観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)―100ヶ日(ひゃっかにち)100日目▼勢至菩薩(せいしぼさつ)―1周忌(いっしゅうき)2年目▼阿弥陀如来(あみだにょらい)―3回忌(さんかいき)3年目▼阿閦如来(あしゅくにょらい)―7回忌(ななかいき)7年目▼大日如来(だいにちにょらい)―13回忌(じゅうさんかいき)13年目▼虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)―33回忌(さんじゅうさんかいき)33年目、とある。

 13仏は、室町時代(1338~1573)に日本で生まれた冥界の審理に関わる仏とされる。13の仏を貴ぶ「鎌倉13仏詣り」があるようだ。守護仏の句を追ってみる。

 ▼冬の滝不動明王ひとり立つ 加藤知世子▼蓮咲くや榧一本の釈迦如来 長谷川束郊
 ▼はるかぜの文殊菩薩に知恵の願 上村占魚▼この花に普賢菩薩の居給ふと 後藤比奈夫
 ▼なでしこや地蔵菩薩の迹先に 小林一茶▼首傾ぐ弥勒菩薩や花疲れ 殿村莬絲子
 ▼薬師如来壺の秘薬は露の玉 渡辺恭子▼観世音菩薩普門品に紙魚走る 角川春樹
 ▼小鳥来る勢至菩薩の御手かな 倉堀たま子▼元朝の一献阿弥陀如来にも 尼子凡女
 ▼阿閦如来(怒りを鎮める仏の句/未見)▼古寺や大日如来水仙花 正岡子規
 ▼虚空蔵菩薩の温む水掬う 佐藤鬼房、が詠まれている。

 また、苔の露十三塚の螢かな 泉鏡花、などあり。
 この世とあの世の境目に「三途の川」、そこに架かる長い橋を49日間かけて無事渡り切るための案内が13仏信仰といわれる。水音のたえずして御仏とあり 種田山頭火。








# by inakasanjin | 2023-10-20 09:00 | 田舎日記 | Comments(0)


 鎌倉初期、下野国(栃木県)の武将・宇都宮信房(1156~1234)は、源頼朝の命により高倉・吉原・城戸家の3神職などを連れ、文治元年(1185)に福岡県行橋市の稲童浜に上陸。後、城戸家を稲童に据え、秡川を上って紀伊ノ庄(みやこ町木井馬場)の神楽山を拠点に九州の地を治めた。後、信房公が歩いた秡川沿いの村々から「宇都宮家紋」を模った花をつくり、毎年10月7日に「花納め」の神事が「稲童城戸家」で執り行われ始めた。城戸家は、800年を超える伝統を受け継ぎ伝えている。また地元の安浦神社の宮柱と真光院の総代も城戸家が代々、引き受けているとされる。現在は、行橋市道場寺に住む城戸素文さん(76)が「当主」としての役割を担って多忙な日々を送っている。

 彼は、歴史ある家の当主を務めながら鉄鋼メーカーの技術者として勤めていた。定年後、鉄鋼メーカーからタイ工場への派遣を要請され、足掛け4年、現地で技術指導に当たった。その間、黄金色に輝くタイの夜景に魅了された。その色が、何故か、幼い頃から親しんだ麦わらの色に繋がった。技術者として、あの「黄金色を麦わら」で表現できるのでは、と思案の末「麦わら切り絵」を思い付き、やがて「自然の金色」を人の目に馴染むようにした。仕事の図面は基本的に直線、なので曲線を取り入れる作品づくりには試行錯誤を重ねた。
 まず「麦わら」を田んぼで採り、穂を除いて「陰干し」を1ヵ月余りする。後、茎を切り、竹ベラなどで「なめし」て平らにした「わら」を逆さ「下絵」に貼り付ける。後、デザインナイフで絵に沿ってカット、後、黒の台紙に反転貼り付けをしてラミネート仕上げで終了となる工程。それで「陰干し」以降の「絵仕上げ」に時間はかからない。本格的な作品づくりは、自らの干支「亥年」から始め、まだ五年余。干支を1回りして終わりにしようと考えているようだ。
 それにしても「自然の黄金色」作品は、先達もいない中、城戸さん独自の工夫とアイデアで、極めて特異な作品に仕上がっている。干支をはじめ金剛、山門、景色、踊り子、動物、祈り、子どもらの暮らしなど、次々と新鮮な「麦わら作品」が生まれている。
 現在、材料の「麦わら」の確保も難しく、多作は出来ないようだ。親しい友人知人に贈るぐらいだという。最近、作品鑑賞できる「麦わら切り絵」画集の誘いに「こんなものが」と謙遜するが、初見者には「黄金色」作品は鮮やかで強烈な印象を与えるようだ。












# by inakasanjin | 2023-10-13 09:00 | ふるさと京築 | Comments(0)