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 天皇陛下が詠まれる和歌を「御製(ぎょせい)」という。上代から皇族や貴族は歌を詠んだ。江戸時代、宮中で「歌会始の儀」が始まり、明治7年(1874)から国民の詠進も認められ、昭和22年(1947)には国民参加の文化行事になった。天皇の御製を掬う。


▼明治天皇(1852~1912)諱・睦仁、称号・祐宮、印・永。

     よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ

     まぢかくもたづねし民のなりはひをこよひ旅ねの夢にみしかな

     つはものはいかに暑さを凌ぐらむ水にともしといふところにて


▼大正天皇(1879~1926)諱・嘉仁、称号・明宮、印・壽。

     村雨にぬれたる庭の竹垣をしづかにのぼる蝸牛かな  

     国のためたふれし人の家人はいかにこの世をすごすなるらむ

     おしなべて人の心のまことあらば世渡る道はやすからましを


▼昭和天皇(1901~89)諱・裕仁、称号・迪宮、印・若竹。

     降り積もる深雪に耐えて色変えぬ松ぞ雄々しき人もかくあれ

     身はいかになるともいくさとどめりただたふれゆく民をおもひて

     あめつちの神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を


▼平成天皇(1933~)諱・明仁、称号・継宮、印・榮。

     いにしへの人も守り来し日の本の森の栄えを共に願はむ

     うち続く田は豊かなる緑にて実る稲穂の姿うれしき

     木漏れ日の光を受けて落ち葉敷く小道の真中草青みたり


▼今上(令和)天皇(1960~)諱・徳仁、称号・浩宮、印・梓。

     雲間よりさしたる光に導かれわれ登りゆく金峰の峰に

     復興の住宅に移りし人々の語るを聞きつつ幸を祈れり

     学舎にひびかふ子らの弾む声さやけくあれとひたすら望む


 天皇の言の葉は、国の民への思いを詠み込んだ歌が多い。時代を共に生きて民の平安を願う思いが伝わる。戦があり、禍があっても「象徴」の生きる姿を、お見せになる。


# by inakasanjin | 2022-03-11 09:00 | 文学つれづれ | Comments(0)

 世界最古の長編小説『源氏物語』を、世界で初めて英訳出版したのは豊前国前田村(現福岡県行橋市)生れの末松謙澄(1855~1920)といわれる。謙澄の足跡を辿る。


 彼は、大庄屋・末松房澄の四男に生まれ、慶応元年(1865)地元の漢学者・村上仏山が開いた私塾「水哉園」で漢学と国学を学んだ。明治4年(1871)上京。高橋是清を知って高橋に漢学を教え、高橋から英語を学んで、親交を深めた。後、東京師範学校に入学するが、不満を抱いて中退。東京日日新聞に記事を売り込み、笹波萍二のペンネームで社説を執筆するまでになった。その後、伊藤博文の知遇を得て、官界に入り、日朝修好条約の起草に参画。また山縣有朋の秘書官として西郷隆盛への「降伏勧告状」も記した。

 明治11年、イギリス留学を命じられ渡欧。公使館勤務だったが、歴史を学ぶため依願免官。ケンブリッジ大学に入学。在学中は文学活動をすすめ、明治15年に『源氏物語』を英訳した。


 『源氏物語』は、平安時代の寛弘5年(1008)初出の貴族社会を描いた長編物語として読み継がれている。謙澄は、日本は野蛮国だとの蔑みを消すために千年前の日本文化の象徴であり素晴らしい作品の『源氏物語』をイギリスで英語翻訳したようだ。

 その後、1925年にアーサー・ウェイリー(イギリス/1889~1966)訳、1976年にエドワード・サイデンステッカー(アメリカ/1921~2007)訳、1994年にヘレン・マッカラ(アメリカ/1918~98)訳、2001年にロイヤル・タイラー(イギリス/1936~)訳がなされ、世界の「源氏物語五訳』とされているようだ。それぞれの国の文化は翻訳者により「翻訳」されて国と国を繋ぎ、人と人を結んでいる。


 翻訳について、平成29年(2017)の国連総会では「国々を結び、平和と理解と発展を促進するため、翻訳者が果たす役割」は重要だとして、キリスト教の聖職者ヒエロニムス(347頃~420)が亡くなった日の「9月30日」を「世界翻訳の日」と認定。ところで謙澄は安政2年(1855)9月30日が誕生日。聖書を「ラテン語」に「翻訳」してキリスト教に足跡を残した人物の「命日」と、東洋の小さな島国の文化を「英語」に「翻訳」して世界に広めた人物の「生誕」が不思議と重なった。だとするなら謙澄生誕地の行橋市は新たな文化事業として「日本翻訳大賞」創設を立ち上げてもおかしくはないと思う。


# by inakasanjin | 2022-03-04 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)

 郷土には、まだまだ知られてない偉人、賢人が、忘れられ、隠れている。福岡県築城郡宇留津村(現築上町)生まれの小川敬吉(1882~1950)もその1人だろう。

 近年「無名の調査官・小川敬吉」とメディアで紹介されるなど「隠れた資料」とともに彼の評価が始まった。平成28年(2016)に佐賀県立名護屋城博物館で「朝鮮総督府の文化財調査官が遺したもの」として「小川敬吉資料展」が開かれた。足跡を辿ってみる。


 小川は呉服商の長男として生まれた。東京の工手学校(現工学院大学)で学び、明治40年(1907)に内務省に入り、関野貞(東大教授/建築学)のもとで寺社などの古建築の実測・製図にあたった。大正5年(1916)には、朝鮮総督府博物館に勤務、のち技手(技官)に就き、朝鮮半島の古墳発掘、石造物、古建築の調査、仏教建築の修理など、約30年にわたって朝鮮の文化財調査の職務に従事、朝鮮半島全域の「調査実績」を残している。

 20世紀初頭の朝鮮半島では、鳥居龍蔵(人類学)や今西龍(朝鮮史)、黒板勝美(考古学)などの日本人研究者による古蹟調査が行われており、小川もその1人だった。彼は平壌の楽浪古墳や高句麗古墳、慶州の新羅古墳の発掘調査などを実務面で支えたといわれる。

 また、後に韓国の国宝になる「修徳寺大雄殿」の修理にあたっては、部材の墨書から建築年代を高麗時代の仏教建築だと突き止めるなど、貴重な調査結果も残している。


 ところで「小川発掘」は、日韓の文化学術交流資料を蒐集する名護屋城博物館が「古書店目録」から「小川資料」に着目、入手から始まるのだが、実は、平成20年(2008)に、韓国で修徳寺大雄殿の創建700年記念展があり、彼の「当時の調査資料」が出品されたことで「小川敬吉の業績」が広く知られることになり、注目を集めたのが最初だった。

 やはり、どんな道であっても地道な作業を続け、確かな実績を積むことで、時代が、やがて、その人の歩いてきたコツコツ人生に光を当てるようだ。誰かが見ているのだ。

 彼は、総督府を昭和19年(1944)に退官、帰郷。戦後は八津田村の村長を務めた。

 小川の妻・サヨ子さんの「帰宅して〝ただいま゛というなり部屋に籠り、食事の時以外はずっと図面を引いていた」という言葉は、いかに彼が研究者として謹厳実直だったかがわかる。100年前、朝鮮半島の歴史を伝えた日本人がいたことを忘れてはなるまい。


# by inakasanjin | 2022-02-25 09:00 | ふるさと京築 | Comments(0)

歩いた道は『花万朶』

 令和3年(2021)秋、福岡県みやこ町「吉祥院」の坊守で俳人として活躍していた松清ともこさん(享年78)の遺句集『花万朶』が届いた。実は、1年前、兵庫県に住む松清さんの娘・浜名真由子さん(41)から「母の3回忌に句集を」の連絡で、福岡の「花乱社」の別府大悟氏と寺を訪ね、松清卓英住職(42)、真由子さんと面談、出版に入った。


 ともこさんの句集は『胡桃のはなし』『小鳥のはなし』『豊の国』に続く第4句集になる。

タイトルは「花に酔ひ詩に酔ひたる一世かな」と詠んだ母の人生を想い「この峠越ゆれば故郷花万朶」から真由子さんが、優しかった母の暮らしはいつも「花」への想いがあったのでは、と『花万朶』にしたようだ。題字は、筆者畏友の書家・棚田看山(74)君の揮毫。まさに、ともこさんを思い起こさせる優しい、流れるような書である。句集には平成22年(2010)から31年までの544句が「緑雨」「蚕豆」「にほひ桜」「可惜夜」「青英彦」「曼珠沙華」に納まっている。彼岸に心潤おす句集『花万朶』ができた。句を追う。


   さくら咲く英彦の岩瀬の水響き     かなかなの鳴きて日暮れをかなします

   兄となる子の枕辺や螢籠        しづけさの森に焚火の爆ぜる音

   清水は八坂七坂玉霰          念仏のこぼるる如き落葉かな

   ころころと田螺ころがる子らの道    亡き夫に酌む可惜夜の菊の酒

   夕闇の迫りて匂ふ山桜         雀の子塔の九輪をこぼれ翔つ

   鉦太鼓鳴らし始まる山車連歌      除夜の鐘撞くやインドの娘もまじへ


 ともこさんは、香春町に生まれた。彼女の句歴を追ってみると、中学生の頃から句作を始めたようで地元の俳句会(小坂螢泉主宰)に入会。本格的には昭和34年(1959)に『馬酔木』の野見山朱鳥に師事、昭和53年に『円』の岡部六弥太、平成22年に『青嶺』の岸原清行と共に句の道を歩んだようだ。また郷土では「綱敷天満宮俳句大会」や「竹下しづの女顕彰俳句大会」、「今井津須佐神社奉納連歌」などで活躍。その行事で何度かお会いし、お話をしたことがある。温和で規律正しい姿勢は、テキパキ対応の「みやこ町塔祭り俳句大会」によせられる少年少女の「万句」にも及ぶ選を素早く捌く姿にも表れていた。

 彼女の歩いた句の道は、仏の道であり、暮らし、学び、教えの道でもあったようだ。


# by inakasanjin | 2022-02-18 09:00 | 田舎日記 | Comments(0)

アナタハン島の怪悲劇 

 この事件は戦争の狂気の中で起きたようだ。昭和19年(1944)6月、マリアナ諸島のアナタハン島(東西12、南北4㌔、面積31・21平方㌖)にトラック諸島へ物資輸送をする海軍徴用船が、米軍機の襲撃を受けて沈没。兵士10名、徴用船員21名の20代前後の若者が孤島に流れ着いた。そこでは日本企業のヤシ栽培経営の農園技師と沖縄出身の女性・比嘉和子(22)2人の日本人と原住民50人余りが暮らしていた。  

 昭和20年の敗戦後、日本領土でなくなった島から原住民は逃げ出し、女性1人と32人の男性が残った。皆は、終戦を知る術もなく共同生活を送った。そして1人の女性をめぐる怪しい悲劇の連鎖が始まった。昭和36年の投降、帰国まで狂気の世界は続いた。


 ところで和子の夫がパガン島に妹を迎えに行き、行方不明になった後、島が米軍の空襲に遭った。和子は上司の技師とジャングルに逃げ込み助かった。だが、住む場所も着る物もなくなり困り果てたが、助け合うしかない2人は夫婦生活を始めた。豚や鶏がかろうじて生き残ったのと、バナナやパパイヤ、タロイモ、ヤシガニなどで食いつないでいた時、漂流者31人が島に上陸した。そして、女1人と男32人の生活が始まった。

 小さな孤島での奇妙な日々が続く中、昭和21年夏、墜落した米軍戦闘機の残骸で拳銃4丁と実弾が発見された。銃に詳しい男が「使える銃」2丁を組み立てた。銃を持つことで集団の力関係が変化、仲間の1人が亡くなった。和子に言い寄るしつこい男が射殺された。技師は和子から身を引き、銃を持つ男に譲った。男は夜釣りをしていて海で死んだ。次の銃持ちに和子が移って暫くすると、その男も死んだ。

 男たちは1人の女を巡って疑心暗鬼になり、重なる憎悪、復讐でお互いが争い、公然と殺しあった。5年余で怪死、病死、行方不明などで男13人の姿がなくなった。生きる性の現実の中「和子がいるから争う、元凶の和子を殺そう」との計画を聞き、和子はジャングルに隠れ、昭和25年、米国船に救出された。翌年、生き残った19人も帰還した。嘘のような本当の話、を知って驚いた。


 この怪事件は「アナタハンの女王」猟奇事件として報道され「和子プロマイド」も売り出されるなど好奇の目に晒されたが、昭和49年、52歳で亡くなる彼女の晩年は平穏な生活だったと言う。史実をもとにした桐野夏生の小説『東京島』があるようだ。


# by inakasanjin | 2022-02-11 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)