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 世界最古の長編小説といわれる紫式部『源氏物語』は、平安時代の貴族社会を描いた小説で、光源氏を通して、その一族の王朝文化の生活を克明に描いた栄光と没落の大ドラマと言っていい。千年を越えて読み継がれる『源氏物語』の誕生と後の世をさぐってみる。


 紫式部(970~1019)は、20代後半に貴族で3人の妻がいる40代半ばの藤原宣孝(不明~1001)に求婚され、年の差ありだが、長徳4年(998)、明るい人柄に魅かれて妻になり「通い婚」の日々を送った。翌年、娘(賢子=九九九~1082)が誕生した。その後、宣孝が突然、卒去。彼女は「見し人のけぶりとなりし夕べより名ぞむつましき塩釜の浦」と詠み、夫を偲ぶが、若くして寡婦になった。

 内気で暗い性格だったが、現実を受け入れるしかなく、やるせない、失意の中、絶望を乗り越えるために「物語」を紡ぎ始めたとされる。やがて「物語」は評判になり、権力者の藤原道長(966~1028)に認められ、一条天皇の中宮・彰子(道長の長女)に仕えることになった。そこで「物語」は書き続けられ、5年余をかけて「完成」したとされる。『源氏物語』54帖の文献初出は寛弘5年(1008)という。それ以降、日本人の〝宝〟として読まれ続けている。


 紫式部の娘・賢子は、母の後を継いで中宮・彰子の女房として出仕。中納言・藤原兼隆(985~1053)と婚姻。大弍三位を名乗った。『小倉百人一首』には母と歌が並んだ。


 57番 めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな 紫式部

 58番 有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする  大弍三位(賢子)


 ところで『源氏物語』が、いかに人々に親しまれてきたかは「源氏」研究者はもちろんだが、多くの作家が「現代語訳」に挑戦している。与謝野晶子「与謝野源氏」や谷崎潤一郎「谷崎源氏」をはじめ、円地文子、田辺聖子、尾崎左永子、中井和子、橋本治、瀬戸内寂聴、林真理子、大塚ひかり、林望、角田光代などの「現代源氏」が誕生してきた。

 また『源氏物語』は、世界の33言語による「翻訳」があるそうだ。翻訳といえば明治15年(1882)に豊前国前田村(現福岡県行橋市)の末松謙澄(1855~1920)がイギリスのケンブリッジ大学在学中に「英訳出版」したのが最初といわれる。郷土の人物が世界最古の長編小説を世界へ向けて最初に発信したことは誇ってもいいだろう。









# by inakasanjin | 2023-03-17 09:00 | 文学つれづれ | Comments(0)

抹茶と煎茶、頂戴します

 暮らしの中、いろんな場所で「お茶」を戴く機会が多い。それぞれ「頂戴します」の気持ちで飲んでいる。とにかく。生活のそばには、番茶から玉露、紅茶、ほうじ茶など、あまたの茶がある。我が国での茶を飲む習慣は、奈良、平安時代からといわれる。千利休は「数奇道」といい、古田織部は「茶湯」、小堀遠州は「茶の道」といった。そして江戸時代から「茶道」といわれ、表千家は「さどう」で裏千家は「ちゃどう」と呼ぶようだ。

 それで茶の儀式がある「抹茶」と「煎茶」についての歴史と茶の味わいを追ってみる。


 抹茶は、中国の「喫茶」の風習が源流で唐から宗代にかけて発展したとされる。日本には平安時代に「喫茶法」が伝わったが、初めは嗜好品ではなく薬としての認識だったようだ。鎌倉時代の1191年、臨済宗開祖の栄西が中国から帰国の際に「茶種」と「抹茶法」の作法を持ち帰ったと言われる。今「抹茶」の元は中国だが、世界では日本発「Matcha」として知られるようになっている。碾茶(てんちゃ)を粉末にした緑茶の一種で、茶の木から採った茶葉を蒸した後、揉まずに乾燥させて石臼(茶臼)で挽く。後「お点前、頂戴します」では、湯を沸かし、茶を点て、振る舞う、茶の儀式に則って、茶を嗜むことになる。茶道の流派は、三千家をはじめ50以上の活動があり、他、5百近くあるともいわれる。


 煎茶は、江戸時代の1738年、山城国(京都府)で茶栽培に従事していた永谷宗円によって創案されたという。後、禅宗の黄檗宗を開いた隠元隆琦が「煎茶道」の開祖となった。茶の製法は、茶の木から摘んだ茶葉を中国では釜で炒って加熱する釜炒り茶が一般的だとされるが、日本では茶葉を蒸し、粗籾、揉捻、中揉、精揉、乾燥の工程を経て製造されるのが主流のようだ。煎茶は、本来「煎じる茶」であり、香気は清らかな芳香、青臭み、生臭みのないものが良いとされる。味は、苦味、渋味、甘味、うま味、が調和し、まろやかな味で、後口が爽快なものが良品のようだ。嗜みは、茶道の形骸化に異議を唱えた文人墨客らの自由発想の「煎茶道」が好まれ、30を超す流派が生活に彩どりを添える活動を奨めている。


 明治時代の思想家・岡倉天心は『茶の本』を1906年に出版。抹茶、煎茶などの歴史や製法などを記し、茶の道は生きる技を磨くもの、と説いているそうだ。また日々が仏道修行という「喫茶去(きっさこ)」の、お茶でも飲んでいきなされ、は究極の言葉のようだ。





# by inakasanjin | 2023-03-10 09:00 | 田舎日記 | Comments(0)

 神代の時代、須佐之男命(スサノオノミコト)の横暴が原因で天照大神(アマテラスオオミカミ)が天の岩戸にお隠れになった。昼のない夜だけの世界になり、災いが起こり始めた。そこで天鈿女命(アメノウズメノミコト)が大岩の前で舞い、踊ったのが舞踊の始まりとされる。舞いや踊りは神に捧げるもの、神と交流するものとして生まれた。


 日本舞踊の3要素は、舞い、踊り、振り、といわれる。その舞いと踊りを追ってみる。

 舞いは、古典の神楽に大陸からの渡来芸が加わったとされ、手足を旋回させて動く姿となる。それは個人的であり、芸術的である。そして専門的技能を持って少数で舞う貴族的な性格を持つといわれる。舞は「まわる」「まわす」の動きで、足は床を滑るようにする。種類は、隼人舞、倭舞、五節舞、幸若舞、曲舞、白拍子舞などと多くの舞があり、やがて能の舞として完成されていったようだ。舞いの詠まれた句と歌をみる。


    舞そめや金泥ひかる京扇  正岡子規

    滑稽(おどけ)たる一寸法師舞ひいでよ秋の夕のてのひらの上  与謝野晶子


 また踊りは、民衆の中から生まれたといわれ、手足を躍動させて動く姿になる。それは集団的であり、生活的である。そして素人が群れをなし、足は床を跳ね踊る庶民的な性格を持つようだ。歴史をたどれば室町時代の念仏踊りや分霊踊りの登場からといわれ、風流踊りへつながる。さらに素人芸が興行化して出雲阿国らの歌舞伎踊りが生まれる。だが「カブク」がみだらな芸として取り締まりの対象になった。踊りの詠まれた句と歌をさがす。


    細腰の法師すゞろに踊かな  与謝蕪村

    はるばるに波の遠音のひびきくる木かげ深く月夜の踊り  島木赤彦


 ところで「舞踊」の言葉は明治37年(1904)の坪内逍遥『新楽劇論』から一般的になったといわれる。そこで、舞い踊るというが、舞いは古来からの形で重心を体の下に置き旋回の動き、踊りは洋舞と同じ体を上に引き揚げる動きをする。舞いと踊りは違う。 

 舞いは神社の祭祀の際の「神楽舞(巫女舞)」が知られており、踊りは各地の先祖供養と亡くなった人の御霊を弔い、送る「盆踊り」が親しい。こうしてみると「舞い」と「踊り」は静と動。そして「神迎え」の「舞い」であり、「神送り」の「踊り」といっていい。









# by inakasanjin | 2023-03-03 09:00 | 田舎日記 | Comments(0)

鷗外・増蔵と漱石・豊隆

 福岡県みやこ町には、明治の2大文豪である森鷗外(1862~1922)と夏目漱石(1867~1916)を支えた人物がいる。鷗外の志を継いで元号「昭和」を考案した漢学者の吉田増蔵(1866~1941/勝山上田生まれ)と、漱石山房に出入りして小説『三四郎』のモデルになったドイツ文学者の小宮豊隆(1884~1966/犀川久富生まれ)である。この増蔵と豊隆にまつわるエピソードを追う。不思議な縁の2人である。


 まず宝暦8年(1758)の「思永斉」開学から思永館、香春思永館、育徳館、育徳学校、豊津中、豊津高そして「育徳館」と続く校歌を2人がともに作詞していることである。


       豊津中学校校歌      吉田増蔵作詞/山本寿作曲

    建国遠くさかのぼり/遠神の肇造らしし/わが国体の尊きを/

    天にそびゆる彦山の/高根とほくも仰ぐかな//(略)

    古今を貫く力もて/学びの業の文と武を/躍進こえて学ぶ舎の/

    我が錦陵の其の光/輝かさばや海外に


       育徳館校歌        小宮豊隆作詞/信時潔作曲

    今川と祓郷川と/右左ゆたかにうねり/馬ケ嶽西より迫り/

    彦山は南に聳ゆ/翠松は校舎を囲み/風立てば琴を奏づる//(略)

    いざ我等心を合わせ/高々と理想をかかげ/惜しからぬ命を賭けて/

    勇敢に真理を護り/混沌の世界の中に/とことはの平和を布かむ


 次に日本最初の青春小説に「みやこ人」が登場することである。漱石の『三四郎』は明治41年(1908)に新聞小説として発表された。すると2年後、ライバルと言われた鷗外は〝田舎出の青年〟を主人公とする『青年』を雑誌に掲載した。

 漱石『三四郎』のモデルが豊隆、で、鷗外『青年』は、行橋市の素封家・柏木家の「法科大学生柏木純一」がモデルとされる。この『青年』に「漢学者吉田増蔵」らしき人物も出てくる。100年を超えて読み継がれる日本の2大「青春小説」のモデルが郷土人なのだ。


 意外なところにビッグで楽しめる話題が眠っている。鷗外と漱石を支えた人物が郷土人であることを誇り伝えていい。やはり埋もれた遺産に光当れば、さらなる輝きを生む。


# by inakasanjin | 2023-02-24 09:00 | ふるさと京築 | Comments(0)

 フランスの哲学者であるブレーズ・パスカル(1623~62)は「人間は自然のうちで最も弱い葦の一茎にすぎない、だがそれは考える葦である」と言った。

 現代ほど、人間のいろんな発想がネットなどを通して瞬時に拡散される時代はあるまい。視点を変えてのモノゴトの見方は、千差万別であり、発想の転換で思いもかけない視点も生まれてくる。最近、なるほど、なるほどと「罰金」についての考察に納得した。


    働いたら罰金―所得税

    買ったら罰金―消費税

    持ったら罰金―固定資産税、

    住んだら罰金―住民税、生きてる罰金―住民税

    飲んだら罰金―酒税

    吸ったら罰金―たばこ税

    乗ったら罰金―自動車税・ガソリン税

    入ったら罰金―入浴税

    起業したら罰金―法人税

    死んだら罰金―相続税、継いでも罰金―相続税

    あげたら罰金―贈与税、貰っても罰金―贈与税

    若くて罰金―年金、老けても罰金―介護保険料、老いたら罰金―後期高齢者など。

    働かなければ賞金―生活保護


 よく考えれば「税」は、生きて払う「罰金」かも知れない。生き賃なのだろう。


    春寒くわが本名へ怒涛の税     加藤楸邨

    税金のかかるリヤカーもみんなわしらには農具でねえかよ   橋本夢道


 とにかく、人間生きていることが「罰」であるようで、古人も「うそ寒や只居る罰が今あたる 小林一茶」などと詠んでいる。さらに、現代は「納税の義務に罰あり さりながら 使う側には罰なきて憂し 詠み人知らず」とあるように「税」の「罰」は公平なのだろうか。  

 ところでイギリスのバッキンガム宮殿は、まさか「罰金造り」ではあるまい。


# by inakasanjin | 2023-02-17 09:00 | 田舎日記 | Comments(0)