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歩いた道は『花万朶』

 令和3年(2021)秋、福岡県みやこ町「吉祥院」の坊守で俳人として活躍していた松清ともこさん(享年78)の遺句集『花万朶』が届いた。実は、1年前、兵庫県に住む松清さんの娘・浜名真由子さん(41)から「母の3回忌に句集を」の連絡で、福岡の「花乱社」の別府大悟氏と寺を訪ね、松清卓英住職(42)、真由子さんと面談、出版に入った。


 ともこさんの句集は『胡桃のはなし』『小鳥のはなし』『豊の国』に続く第4句集になる。

タイトルは「花に酔ひ詩に酔ひたる一世かな」と詠んだ母の人生を想い「この峠越ゆれば故郷花万朶」から真由子さんが、優しかった母の暮らしはいつも「花」への想いがあったのでは、と『花万朶』にしたようだ。題字は、筆者畏友の書家・棚田看山(74)君の揮毫。まさに、ともこさんを思い起こさせる優しい、流れるような書である。句集には平成22年(2010)から31年までの544句が「緑雨」「蚕豆」「にほひ桜」「可惜夜」「青英彦」「曼珠沙華」に納まっている。彼岸に心潤おす句集『花万朶』ができた。句を追う。


   さくら咲く英彦の岩瀬の水響き     かなかなの鳴きて日暮れをかなします

   兄となる子の枕辺や螢籠        しづけさの森に焚火の爆ぜる音

   清水は八坂七坂玉霰          念仏のこぼるる如き落葉かな

   ころころと田螺ころがる子らの道    亡き夫に酌む可惜夜の菊の酒

   夕闇の迫りて匂ふ山桜         雀の子塔の九輪をこぼれ翔つ

   鉦太鼓鳴らし始まる山車連歌      除夜の鐘撞くやインドの娘もまじへ


 ともこさんは、香春町に生まれた。彼女の句歴を追ってみると、中学生の頃から句作を始めたようで地元の俳句会(小坂螢泉主宰)に入会。本格的には昭和34年(1959)に『馬酔木』の野見山朱鳥に師事、昭和53年に『円』の岡部六弥太、平成22年に『青嶺』の岸原清行と共に句の道を歩んだようだ。また郷土では「綱敷天満宮俳句大会」や「竹下しづの女顕彰俳句大会」、「今井津須佐神社奉納連歌」などで活躍。その行事で何度かお会いし、お話をしたことがある。温和で規律正しい姿勢は、テキパキ対応の「みやこ町塔祭り俳句大会」によせられる少年少女の「万句」にも及ぶ選を素早く捌く姿にも表れていた。

 彼女の歩いた句の道は、仏の道であり、暮らし、学び、教えの道でもあったようだ。


# by inakasanjin | 2022-02-18 09:00 | 田舎日記 | Comments(0)

アナタハン島の怪悲劇 

 この事件は戦争の狂気の中で起きたようだ。昭和19年(1944)6月、マリアナ諸島のアナタハン島(東西12、南北4㌔、面積31・21平方㌖)にトラック諸島へ物資輸送をする海軍徴用船が、米軍機の襲撃を受けて沈没。兵士10名、徴用船員21名の20代前後の若者が孤島に流れ着いた。そこでは日本企業のヤシ栽培経営の農園技師と沖縄出身の女性・比嘉和子(22)2人の日本人と原住民50人余りが暮らしていた。  

 昭和20年の敗戦後、日本領土でなくなった島から原住民は逃げ出し、女性1人と32人の男性が残った。皆は、終戦を知る術もなく共同生活を送った。そして1人の女性をめぐる怪しい悲劇の連鎖が始まった。昭和36年の投降、帰国まで狂気の世界は続いた。


 ところで和子の夫がパガン島に妹を迎えに行き、行方不明になった後、島が米軍の空襲に遭った。和子は上司の技師とジャングルに逃げ込み助かった。だが、住む場所も着る物もなくなり困り果てたが、助け合うしかない2人は夫婦生活を始めた。豚や鶏がかろうじて生き残ったのと、バナナやパパイヤ、タロイモ、ヤシガニなどで食いつないでいた時、漂流者31人が島に上陸した。そして、女1人と男32人の生活が始まった。

 小さな孤島での奇妙な日々が続く中、昭和21年夏、墜落した米軍戦闘機の残骸で拳銃4丁と実弾が発見された。銃に詳しい男が「使える銃」2丁を組み立てた。銃を持つことで集団の力関係が変化、仲間の1人が亡くなった。和子に言い寄るしつこい男が射殺された。技師は和子から身を引き、銃を持つ男に譲った。男は夜釣りをしていて海で死んだ。次の銃持ちに和子が移って暫くすると、その男も死んだ。

 男たちは1人の女を巡って疑心暗鬼になり、重なる憎悪、復讐でお互いが争い、公然と殺しあった。5年余で怪死、病死、行方不明などで男13人の姿がなくなった。生きる性の現実の中「和子がいるから争う、元凶の和子を殺そう」との計画を聞き、和子はジャングルに隠れ、昭和25年、米国船に救出された。翌年、生き残った19人も帰還した。嘘のような本当の話、を知って驚いた。


 この怪事件は「アナタハンの女王」猟奇事件として報道され「和子プロマイド」も売り出されるなど好奇の目に晒されたが、昭和49年、52歳で亡くなる彼女の晩年は平穏な生活だったと言う。史実をもとにした桐野夏生の小説『東京島』があるようだ。


# by inakasanjin | 2022-02-11 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)

 郷土の京築地域や北九州の言葉は、案外、聞き取り易いようだ。友が帰省して喋る時は、いつもお互い、昔に還り、方言での喋りを楽しんでいる。50音の方言、を拾う。


  〖あ〗あげな〖い〗いさる〖う〗うたちぃ〖え〗えれぇちゃ〖お〗おらぶ

  〖か〗かべちょろ〖き〗きびる〖く〗くらされる〖け〗けたぐる〖こ〗こまめ

  〖さ〗さんのーが〖し〗しゃーしい〖す〗すらごと〖せ〗せ~の〖そ〗ぞろびく

  〖た〗たまがる〖ち〗ちゃーらん〖つ〗つまらん〖て〗てぃがてー〖と〗どんべ

  〖な〗なんかかる〖に〗にくせぇ〖ぬ〗ぬすくる〖ね〗ねぶる〖の〗のぉせぇ

  〖は〗はぶてる〖ひ〗ひんこない〖ふ〗ふんじょる〖へ〗へる〖ほ〗ほげる

  〖ま〗またごす〖み〗みずや〖む〗むげねぇ〖め〗めんどしい〖も〗もうがんこ

  〖や〗やおない〖ゆ〗ゆわん〖よ〗よっちょくれ

  〖ら〗らくちゃ〖り〗りこう〖る〗るすしちょる〖れ〗れいちゃ〖ろ〗りくなこと

  〖わ〗わっきゃがる〖ゐ〗ゐぬる〖ゑ〗ゑれーし〖を〗をいぼれ〖ん〗そーなん


 方言は各地の特徴を際立たせ、味わいを持つ。ところで「すごい」という言葉が全国47都道府県で全て違うという「すごい」記述を目にして驚いた。すごい、を拾う。


 〖北海道〗なまら〖青森〗わや〖岩手〗らずもね〖宮城〗いぎなり〖福島〗ばげぇに

 〖秋田〗しったげ〖山形〗すこだま〖東京〗べらぼう〖神奈川〗すっげぇ

 〖栃木〗まっさか〖群馬〗なっから〖千葉〗のぉほど〖埼玉〗いら〖茨城〗うんと

 〖愛知〗でら〖岐阜〗でぇれぇ〖静岡〗がんこ〖石川〗まんで〖富山〗なんちゅう

 〖新潟〗ごぉぎ〖山梨〗だたら〖長野〗えれぇ〖福井〗ひっで〖京都〗えろぉ

 〖大阪〗めっちゃ〖兵庫〗がっせえ〖滋賀〗えらい〖奈良〗ごっつぅ

 〖和歌山〗やにこぉ〖三重〗むっちゃ〖島根〗まげに〖鳥取〗がいな〖広島〗ぶち

 〖岡山〗ぼっけぇ〖山口〗ぶり〖徳島〗ごっつい〖香川〗ものすご〖愛媛〗ほぉとぉ

 〖高知〗こじゃんと〖福岡〗ばり〖佐賀〗がば〖長崎〗いじ〖熊本〗たいぎゃ

 〖大分〗しんけん〖宮崎〗てげ〖鹿児島〗わっぜぇ〖沖縄〗でぇじ


 郷土それぞれ、地域それぞれ、言葉それぞれ、人それぞれ、だから面白いのだろう。



# by inakasanjin | 2022-02-04 09:00 | 田舎日記 | Comments(0)

国分寺と安国寺

 日本では538年の仏教伝来以降、遣隋使や遣唐使などを通して大陸の仏教文化を知り造寺の機運が高まった。寺は、自宅に持仏堂を造り、家の繁栄と子孫安泰を願う私宅寺院とした蘇我稲目の「向原寺」が最初だった。そして聖徳太子が父のために「法隆寺」曽我氏も「法興寺」を建立して仏法の興隆を図った。後、全国規模で寺院建立が進められた。


 国分寺は、奈良時代の天平13年(741)に聖武天皇(701~56)が仏教による国家鎮護のために日本の各国に国分寺と国分尼寺の建立を命じ創建された寺院である。

 天皇の「国分寺建立の詔」は、国に七重塔を建て、僧寺と尼寺を設置、名称は金光明四天王護国之寺(国分寺)と法華滅罪之寺(国分尼寺)とする。さらに寺の財源には僧・尼寺ともに田十町(10㌶)を施す、ただし僧は20人、尼僧は10人を置くこととするなどが定められた。奈良の東大寺を総国分寺、法華寺を総国分尼寺の総本山と位置づけて畿内に5、東海道に15、東山道に8、北陸道に7、山陰道に8、山陽道に8、南海道に6、西海道に9、それに壱岐と対馬には島分寺が置かれ、全国68カ所に建てられた。ところが国家事業として推進したにも拘らず、律令体制が衰退していくにしたがって官の支援が無くなると、平安時代末頃までには、ほとんどの寺が消滅していった。


 安国寺は、足利尊氏(1305~81)が延元元年(1336)に九州から東上、楠木正成を破って武家貴族として室町幕府(足利幕府)を創始するが、後、臨済宗の禅僧・夢窓疎石(1275~1351)の勧めにより、弟の直義(1307~52)とともに国家安寧を祈願、南北両朝の戦没者の菩提を弔うために延元3年から10年余をかけて聖武天皇の国分寺に倣って全国66カ国2島に1寺1塔(安国寺/利生塔)を設けた。そこに朝廷から賜った仏舎利も納めた。が、暫くして歴史上最大かつ最悪という尊氏と直義の兄弟喧嘩〝観応の擾乱〟が起こり、混乱するが、3代将軍義満になって世の中が落ち着いた。


 足利の世は続いたが、元亀4年(1573)15代将軍義昭が織田信長によって京都から追放された。室町幕府は終焉を迎えた。足利の滅亡によって文化的、政治的意義の大きかった安国寺と利生塔も衰退の一途を辿るしかなかった。盛者必衰の習い、か。

 現在、全国のお寺さんは77254寺院。日々、御仏の前で手を合わせる姿がある。


# by inakasanjin | 2022-01-28 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)

 ものごとの最初だとか、最古だとか、というと尊厳、魅惑の想いが生まれる。太古の日本では,ものごとは人の記憶で口承するしかなかったが、文字が伝わり、人に伝える術を知った。8世紀初頭に成立した『古事記』は日本最古の文献である。神話、伝説、歌謡などで国の成り立ちなどを伝える書物。太古の神々が唱えた〝歌〟が数多く収められている。

 須佐之男命(スサノオノミコト)がヤマタノオロチを退治して櫛名田比売(クシナダヒメ)と結ばれ、出雲の地に新宮を造った折に詠まれた〝歌“が日本最古の和歌と言われる。


   八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

   (夜久毛多津 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曽能夜幣賀岐袁)


 平安時代の歌人・紀貫之(868~946)は、この歌を「人の世となりてスサノオノミコトよりぞ三十文字あまり一文字は詠みける」と和歌の起源と断定。そして出雲の地が発祥と伝わる。因みに「和歌の俳句化」なのか、形式変化で俳句が詠まれた。近江国(滋賀県草津市)出身の戦国時代の連歌師・山崎宗鑑(1465~1554)の句が始まりという。


   貸し夜着の袖をや霜に橋姫御


 京都宇治川に架かる橋のたもとに橋をまもる女神がいた伝説を詠んだようだ。

 次に世界最古の〝歌〟はデンマーク国立博物館所蔵の「セイキロスの墓碑銘」だそうで、墓石に完全な形で残る楽曲だと言う。墓石はトルコの都市アイドゥン近郊で発掘され、紀元前2から紀元後1世紀頃のものとされる。石には「わたしは墓石です。セイキロスがここに建てました。決して死ぬことのない、とこしえの思い出の印にと」記されている。

 2千年を超えて「歌詞と音符が刻まれた墓碑」が伝わる凄さを思う。詞を見る。


   生きている間は輝いていてください  思い悩んだりは決してしないでください

   人生はほんの束の間ですから     そして時間は奪っていくものですから


 これは「セイキロスが妻のエウテルぺに捧げた楽曲」だと考えられている。また世界最古の詩は、紀元前3千紀のシュメール(現イラク)の『ギルガメシュ叙事詩』で古代メソポタミアの伝説的な王をめぐる物語と言われる。遺された言葉は、悠久の時の海を漂い、人の証を伝える。先祖から伝わり、子孫に伝えることは、永遠を自覚しての伝承になる。


# by inakasanjin | 2022-01-21 09:00 | 文学つれづれ | Comments(2)