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 2018年は文政元年(1818)に頼山陽が「耶馬渓」と名付けて200年。大分県中津市を流れる山国川沿いの台地浸食で出来た奇岩連なる絶景の「山国谷」を訪れた頼山陽は、その地に中国風の文字を宛て「耶馬渓天下無」と詠んだ。耶馬渓の名の始まりである。大正5年(1916)に大沼(北海道)三保の松原(静岡)と「日本新3景」に選ばれた。

 後、寒霞〈かんか〉渓(香川)と妙義山(群馬)で「日本3大奇景」と呼ばれ、猊鼻〈けいび)渓(岩手)と嵯峨渓(宮城)で「日本3大渓」さらに日光(栃木)と嵐山(京都)で「日本3大紅葉の里」として親しむ、まさに名勝。昭和25年(1950)に耶馬日田英彦山国定公園に指定された。地名が付いて百年後、景色に「物語」が加わって以降「耶馬渓」の名は全国に知れ渡った。名作が多くの人を惹き付けることになった。


 大正8年(1919)菊池寛『恩讐の彼方に』が上梓されると「耶馬渓詣」が増えた。物語は、羅漢寺の禅海和尚がノミ1本で難所の岩盤を開削、隧道(青の洞門)を完成させる苦難の伝承に基づいたものだった。各地から多くの人が「青の洞門」に足を運んだ。


 頼山陽(1781~1832)は、大阪生まれの漢詩人、文人であり幕末の尊王攘夷運動に影響を与えたという『日本外史』を著した歴史家、思想家であった。京都に居を構え、著述を続けた。九州旅行では廣瀬淡窓らの知遇を得、田能村竹田らとも交流を図った。

 今、詩吟や剣舞で川中島の戦いを描いた彼の漢詩「題不識庵撃機山図」が馴染み深い。


   鞭声粛粛 夜河を過る 暁に見る千兵の 大牙を擁するを 

   遺恨なり十年 一剣を磨き 流星光底 長蛇を逸す  (川中島)


 頼山陽は「行けば行くほど景色は良くなり、群峰が渓水をはさんで連なって」(『耶馬渓図巻記』)と凝灰岩や熔岩などからなる大地を記し、訪ねた古寺の上人には「あなたの郷里の山水は絶佳だ」と風景美を称賛。そして現在「本」「深」「裏」「奥」「椎屋」「津民」に耶馬渓の名が付く。過去には「羅漢寺」「麗谷」「東」「南」もあり、10の渓谷は「耶馬十渓」と呼ばれており、山国郷全域の民は素直に〝耶馬渓〟を受け入れていたようだ。

 平成29年(2017)耶馬渓は「やばけい遊覧~大地に描いた山水絵巻の道をゆく」として文化庁の「日本遺産」に指定された。景色を守り育ててきた成果だろう。


# by inakasanjin | 2022-04-15 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)

 村の鎮守の~と唄声が響くような福岡県京都郡苅田町稲光の小さな森の中に國崎八幡神社が鎮座する。社は、平安時代の創建といわれ「國崎臣祖菟名手命(くにさきのおみのおやうなでのみこと)」を主祭神とし、ご利益は「勝利」と「成功」といわれる。それにしても社殿の前に広がる田んぼの景色は、長閑で、静かで、想いを蘇らせる懐かしい風景だ。


 この神社に令和2年(2020)、父の跡を継ぐシングルマザーの権禰宜・辻加奈子さん(41)が誕生。彼女は、長い都会暮らしで、帰郷の度、幼い頃から親しんだ地域の「場所」に心和まされる自分に気づいた。改めて生まれ故郷を外からの目で見ることが出来た。そんな日々の中、都会生活に区切りをつけ「わが里の白川を守ろう」と決意、神主資格を取得、息子と2人で帰郷した。

 後、父が継ぎ守ってきた白川とその周辺の13の神域(國崎八幡・貴船4社・稲荷2社・國崎八幡分社・諏訪・菅原・天疫・窟・白山多賀)を引き継いだ。ところが社の錆び、荒廃する「姿」に心が痛んだ。そこでCF(クラウドファンディング)で資金を募り、朽ちかけた社の修復に併せてボランティアでの神社清掃、創建以来初の御朱印づくりや授与品の作成など、神社の環境整備に力を注いだ。地域活性化も推進した。


 皆との活動の中、神社の縁起物として「ちぃてまりまもり」なる新発想の「自分でつくる御守り」の「授与会」を定期的に開いた。インスタグラム発信で近郊から参加者が集った。

 てまりは、小さな和紙に、もみ殻を大匙2杯半ほど乗せ、その中に願いを書き込んだ小さな紙を入れ、紙をまるく包み、草木染もめん糸をくるくる万遍なく巻き始める。包み紙が見えなくなるまで巻いて、巻いて直径4㌢弱の、小てまりを完成させる。シックで落ち着く色合いの「ちぃてまり」は魅力的なかわいい姿で掌にのる。まさに、自分ひとりの「お守り」に変身する。創作では楽しい言葉が飛び交い、心を許す時が流れ、満足感を与えてくれる。

 また、まあ~るぃ「てまり」に倣い、令和3年から真っ暗な境内に「美しい光の紋様」を生む、まあ~るぃ「竹灯籠」75個が吊るされ、幻想的な世界を創出することになった。


 郷土の国学者・挟間畏三が「天孫降臨の地」とした名峰・高城山(415・6㍍)のすぐそばに鎮座する國崎八幡の取り組みは「田舎大好き、白川大好き」と語るシングルマザー神主と「神社」を囲んで暮らす地域の皆さんの熱い想いにかかっている。前進するのみ。


# by inakasanjin | 2022-04-08 09:00 | ふるさと京築 | Comments(0)

 昭和20年(1945)の東京大空襲は「下町だけでなく山の手も酷かった」と聞いた。昭和19年11月から翌年の終戦までの間、アメリカ軍の無差別攻撃は百回を超えたとされる。象徴的なのは3月10日の「下町空襲」と5月25日の「山の手空襲」のようだ。今、3・10下町空襲も5・25山の手空襲も記憶は薄いようだ。2つの空襲を追う。


 3月10日の「下町空襲」は、午前0時8分から午前2時37分に下町住宅密集地を狙い、アメリカ軍の戦略爆撃機B29の344機による深夜空爆が実行された。焼夷弾は1665トンを投下。焼夷弾は攻撃地帯を焼き払うことが目的でナパーム製高性能焼夷弾は火の壁を作って住民の退路を断った。運悪く、強風も吹き荒れ、火勢は勢いを増して広がった。炎は一夜で下町を焼け野原にした。2時間余で〝帝都東京〟は破壊された。そして死者10万人超、負傷者11万人余、被災者100万人超の惨憺たる情景が目の前に現われた。


 5月25日の「山の手空襲」は、午後10時22分から2時間余、B29の470機が夜間空襲を行い、3300トンの焼夷弾を投下した。表参道のケヤキを焼き、青山通りの激しい火と熱風は多くの人の逃げ場を奪った。昭和天皇・皇后も御文庫に避難、皇居も国会議事堂も東京駅も被災した。死者3651人、これは3・10を教訓に疎開が進み、人々は消火活動よりも避難を優先した結果だと言われる。罹災者は56万人余。これで市街地は壊滅状態で「東京空襲の総仕上げ」が完了、世界史上例を見ない「大空襲」は終わった。


 墨田区には「下町空襲」の電話局殉職者「慰霊碑」が作家・吉川英治の碑文揮毫で建つ。

 「(略)昭和二十年三月九日夜半における大戦の大空襲下に 国を愛する清純と自らの使命の為 ブレストも身に離たず 劫火のうちに相擁して仆れた主事以下の男職員三名ならびに女子交換手二十八名が その崇高な殉職の死を 永遠となした跡である(略)」


 港区には「山の手空襲」で遺体が積まれていた場所に「和をのぞむ」追悼碑が建つ。

 「太平洋戦争の末期、昭和二十年五月、山の手地域に大空襲があり、赤坂・青山地域の大

半が焦土と化しました。(略)戦災により亡くなった人々を慰霊するとともに、心から戦争のない世界の平和を祈ります。(略)この地に平和を願う記念碑を建立します(略)」


 子々孫々に伝えることが人の道ならば、忘れないよう、伝える努力は怠るまい。


# by inakasanjin | 2022-04-01 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)

 日本人はうまい言葉を生み出すものだと感心する。とにかく言葉誕生には、行きつ、戻りつ、イロイロある。例えば、ベースボールを野球と訳すまでの経過を追ってみる。

 最初に「野球」という言葉を使ったのは、確かに俳人で歌人の正岡子規(1867~1902)のようだ。しかし、ベースボールの訳語ではなく、彼の幼名「升(のぼる)」に因んで「野球(のぼーる)」の雅号を持ったことだ。彼の命名俗説が広まったのは、日本に野球が導入された頃、友の河東碧梧桐(1873~1937)が「変態現象」と言うほど、彼はベースボールに執着、熱心でポジションも捕手。明治22年(1889)の喀血まで活躍した選手だった。後、子規は新聞の随筆に「ベースボール未だ曽て訳語あらず、今こゝに掲げたる訳語は吾の創意に係る」と記し、バッターを打者、ランナーを走者、フォアボールを四球、ストレートを直球、フライボールを飛球とするなどの翻訳案を提示した。

 まだベースボールを「底球」と呼ぶ時代だった。子規は、熱い想いの句歌を残す。


   まり投げて見たき広場や春の草

   九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす


 ベースボールの日本導入は、明治4年、お雇い外国人として来日した米国のホーレス・ウイルソン(1843~1927)が東京開成学校の生徒らに教えたことに始まる。明治26年、第一高等中学校(現東大などの前身)の選手として活躍していた鹿児島市出身の中馬庚(ちゅうまかなえ1870~1932)は、卒業記念に「ベースボール部史」の執筆を依頼され「Ball in The field」を基に「野球」と命名した。そして「テニスは庭でするから庭球、ベースボールは野原でするから野球」の説明に皆は納得した。

 中馬は、昭和45年(1970)に野球殿堂入り、レリーフに刻まれた顕彰文がある。


   明治27年ベースボールを「野球」と最初に訳した人で、また同30年には野

   球研究書「野球」を著作。これは単行本で刊行された日本最初の専門書で、日

   本野球界の歴史的文献と言われている。一高時代は名2塁手。大学に進むやコ

   ーチ・監督として後輩を指導。明治草創時代の学生野球の育ての親といわれた。


 一つの言葉が生まれ、定着するまでにはいろんなドラマが楽しめる。それもまた良し。


# by inakasanjin | 2022-03-25 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)

 歴代の天皇が詠まれる和歌は「御製(ぎょせい)」といい、皇后、皇太后は「御歌(みうた)」とされ、皇族は「お歌(うた)」といわれる。明治から令和の皇后の御歌を掬う。


 【明治】昭憲皇后(1849~1914)お印は若葉。旧名は一条美子(はるこ)。

       みがかずば玉も鏡も何かせむまなびの道もかくこそありけれ

       はつかりをまつとはなしにこの秋は越路のそらのながめられつつ

       人ごとの良きも悪しきも心して聞けばわが身の為とこそなれ


 【大正】貞明皇后(1884~1951)お印は藤。旧名は九条節子(さだこ)。

       四方の国睦みはかりて救はなむ幸なき人の幸をえつべく

       昔わがすみける里の垣根には菊や咲くらむ栗や笑むらん

       さみだれはいとども袖をぬらすかなゆうふべの雲となりし君ゆゑ


 【昭和】香淳皇后(1903~2000)お印は桃。旧名は良子(ながこ)女王。

       あたたかきとつ国人の心つくしゆめなわすれそ時はへぬとも

       あめつちの神ももりませいたつきにいたてになやむますらをの身を

       きずつきし心の子らをいだきよするははともなりていつくしまなむ


 【平成】美智子皇后(1934~)お印は白樺。旧名は正田美智子。

       あづかれる宝にも似てあるときは吾子ながらかひな畏れつつ抱く

       語るなく重きを負ひし君が肩に早春の日差し静かにそそぐ

       彼岸花咲ける間の道をゆく行き極まれば母に会ふらし


 【令和】雅子皇后(1963~)お印はハマナス。旧名は小和田雅子。

       君と見る波しづかなる琵琶の湖さやけき月は水面おし照る

       生れいでしみどり児いのちかがやきて君と迎ふる春すがすがし

       災ひより立ち上がらむとする人に若きらの力希望もたらす


 御歌は、みうた、ぎょか、おんうた、おうた、おおんうた、と読む。また神に捧げる御歌(みか)とも読み、土地の再生を願って歌を奏でることは、光を生み、水や万物を浄めるとされる。まさに皇后の国母としての〝美歌〟を詠む響きには、民を想う魂が宿るよう。


# by inakasanjin | 2022-03-18 09:00 | 文学つれづれ | Comments(0)