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 明治40年(1907)アメリカの新聞社が「ミスワールドコンテスト」を企画。日本の時事新報社に日本予選をとの打診があり「新興の日本帝国は、一事一物決して、人後に落つるべからざる(略)大いに薦むるの必要ある(略)断然応諾(略)日本美人写真募集の大計画を発表せり」として日本初の全国ミスコンテストが開かれることになった。


 明治41年、大々的な全国キャンペーンが展開された。応募者は、芸妓や女優、モデルなどは不可、良家の淑女など自薦、他薦を問わず「写真選考」で初の「ミス日本」を決めた。応募者は7千人にのぼり、審査員は岡田三郎助(洋画家)高村光雲(彫刻家)中村芝翫(歌舞伎俳優)など各業界を代表する13名の審査員があたった。


 日本ミスコン優勝者第1号は、福岡県小倉市(現北九州市)の末弘直方小倉市長の4女で16歳の末弘ヒロ子(1893~1963)に決定。彼女は、当時、学習院女学部3年生。7人兄姉で茶道、華道、舞踊、琴、ピアノなどを嗜み〝小倉小町〟と呼ばれる美貌で聡明な子女だった。

 審査員の絶賛を得て1位に輝いた彼女の写真は、主催国のアメリカにも送られて披露。一躍、時の人として数百の縁談も舞い込んだが、予期せぬドラマが生まれた。


 学習院では、彼女がコンテストに参加したことで、直ちに協議が行われ、女学部長の強硬論により「諭旨退学処分」が決定。彼女は「甘んじて」それに従った。院長は乃木希典だったが、彼は同意も反対もしなかった。しかし「写真応募」は義兄が勝手にしたことを知って「退学処分」が間違いだったことを乃木は悔やんだと言われる、が、のちに「乃木将軍の大岡裁き」の逸話を生むことになる。乃木は中退者となったヒロ子のために、良い縁談を、と各方面に働きかけて結婚相手を捜した。中々見つからない中、野津道貫陸軍大将が「長男の鎮之助ではどうか」との申し入れがあった。彼は陸軍少佐で侯爵、そして父の跡を継いで貴族院議員の将来が決まっていた。2人は見合いをすると、双方大いに気が合い、両家ともに快諾。乃木の媒酌で結ばれた。捨てる神あれば拾う神あり、で「乃木逸話」として伝わる。

 彼女はガンで伏せった義父の献身的な看病など良妻ぶりも発揮。次女(真佐子)は倉敷絹織(現クラレ)社長・大原総一郎に嫁がせた。また姉(直子)の孫はジャズピアニスト山下洋輔(1942~)で、ヒロ子を「カイブツ」と呼んでいたという随想を残している。


# by inakasanjin | 2022-06-24 09:00 | ふるさと京築 | Comments(0)

 長崎の被爆の惨状をつづった『長崎の鐘』は、戦後大ベストセラーになった。作者の永井隆(1908~51)は「原子野の聖者」として崇められていく。昭和天皇も全国巡幸の折、彼の病床を見舞って「どうか早く回復することを祈っています」とねぎらったと言われる。

 しかし、彼への礼讃の中〝原爆は神の摂理〟なる永井説に疑義をもつ人も多かった。自身も被爆者であった詩人の山田かん(1930~2003)は「長崎原爆に神や祈りのイメージを付加、被爆者を沈黙させ、アメリカの罪悪を覆い隠す役割を果たした」と批判。著書のタイトルは、永井の「新しく朝の光のさしそむる荒野に響け長崎の鐘」の歌から採ったと言われるが、出版は、GHQも絡む、仕組まれたものだったようだ。


 山田かん、本名は山田寛(ひろし)、父はキリスト教信者。8人兄妹の長男として長崎市で生まれた。旧制中学3年の時、被爆、長崎県立図書館に勤務。昭和27年(1952)から詩人として活動を開始。翌年、被爆した妹が自ら命を断った。後『いのちの火』第1詩集を刊行。彼は現代詩新人賞や長崎県文芸賞などを受賞、原爆ナガサキを詠い続けた。

 山田にアメリカの「ロスアラモス」という小さな町の名の詩がある。


  知らなかった ロスアラモスを 1945年8月9日 午前11時2分 そのとき

  知る必要もなかった 知っていたのは 脳天も突きあがるほど知っていたのは

  擦りあった馬鈴薯のように 皮膚は垂れさがり 肉は熔け 泣き 叫び 血はあふれ(略)

  地名事典によると ロスアラモスは 米国ニューメキシコ州の小都市 ヘメス山脈の中の

  1つのメサの上にあり海抜約2400米 サンタフェの西北 64キロの

  所人口約7千 1942年原爆研究所の敷地にえらばれ ウラニウム235と

  プルトニウムの組合せになる原爆はここで完成した 空中写真にそれは 毒蜘蛛のよう(略)


 ロスアラモスは、高山植物が美しく、コヨーテなどの野生動物も生息する自然豊かな町。

 そこでノーベル賞受賞者21名を擁するマンハッタン計画で原子爆弾開発を目的とする国立研究所を創設、そして開発・製造された原爆「リトルボーイ」は広島、「ファットマン」は長崎に投下された。

 永井の〝神の摂理〟に首肯できない山田は〝ナガサキ原爆〟の原点を見つめつづけて、生きて、詩を詠んだ。ここにも原爆詩人の1つの姿がある。


# by inakasanjin | 2022-06-17 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)

 謎の浮世絵師・東洲斎写楽に嵌って40年近くなる。経緯を辿る。こだわり人間の軌跡を残しておくことも大事だろう。写楽絵の入手は、まず困難、だったら「写楽資料」蒐集の徹底を決意。そして資料が2600点に達したところで1区切り、気持ちの整理をする。


 最初は「この本、面白いよ」の本屋のおやっさんの一言だった。昭和58年(1983)第29回江戸川乱歩賞の高橋克彦『写楽殺人事件』で、ストーリーに惹き込まれた。

 写楽といえば、やはりドイツの美術研究家ユリウス・クルト。明治43年(1910)刊行の『SHARAKU』の日本への逆輸入で、写楽の評価は高まっていった。それまで写楽は消えた浮世絵師だった。このクルト初版本を原点に記録をスタートさせた。


 とにかく「写楽」の記述さえあれば、何でも求めた。書籍、雑誌、新聞、図録、研究誌など映像以外は、目につくモノ全てを手に入れた。なかでも平成元年(1989)長野県の上田染谷高校図書館発行のガリ版刷り製本の亀村宏『写楽という男』を知り、まず学校への問い合わせから始め、図書館関係者の配慮で入手できた思い出は、記憶の襞に深く刻まれている。

 また山口県の下関市立美術館で「謎の浮世絵師写楽展」(平成元年)開催の折、仕事を休んで「会場1番乗り」をし、記念に「図録」を頂いた記憶も残る。それに平成27年(2015)には、コミック雑誌に不定期連載された一の関圭『鼻紙写楽』が第20回手塚治虫文化賞「マンガ大賞」に輝いた、これで写楽の「漫画文化」への浸透も示された。


 何はともあれ1番の印象は、北九州の有田久文さん(1930~2003)の研究成果『隠密写楽』出版に関われたことだ。ネット検索で、有田さんの「写楽研究」を確認後、突然、自宅を訪問した。すると「写楽仲間」のよしみで愉しい「写楽談義」に花が咲いた。そして「研究成果」出版を提案すると「やってみましょう」になった。編集者を紹介。出版準備中、作家の高橋克彦さんから「信じている力――何より気迫に圧倒された。(略)隠密説とはなんと魅力的な響きだろう。乾杯、といいたい気分である」の「序文」が届いた。感謝。


 写楽は、寛政6年(1794)5月から翌年正月までに発表された「浮世絵」のみが存在の証。人は謎にチャレンジするが解明者は、まだいない。ただ、年30余点の「写楽資料」の出現を黙々と「追加」してゆくことが、しゃらくさい写楽狂の密かな愉しみである。


# by inakasanjin | 2022-06-10 09:00 | 田舎日記 | Comments(0)

 世の中、何が飛び出てくるかわからない。TV画面に「このハゲ~っ」の金切り声が茶の間を驚かせた。発言の主は女性で、東大卒、厚生省元官僚、自民党衆議院議員というから、また驚いた。こんな人物が国会議員だとは、唖然。情けない国になったものだ。


 ともあれゲス人間は捨て置き、こんな「まさか人間」のいることを思考して見る。

 小泉純一郎元首相が「人生には、上り坂、下り坂、まさかの坂がある」といっていた。なるほど、最初は相手にされなかった彼は「自民党をぶっ壊す」として登場、まさかの長期政権を実現し日本のカタチを変えたと言っていい代議士だった。

 あれから時が経つが、まさか「こんなゲス代議士」をつくる世の中にしてしまったのだろうか。何か「魔坂」の道を歩かされている気がしてならない。自分の道をしっかり選ばなければなるまい。


 生活の中での「上り坂」は仕事や人間関係などが上手く運ばれてゆく時であるが「下り坂」になると何をやっても壁に突き当たるなど歩きづらさに直面する。また、思いもよらぬ想定外の「まさか」に出合うことがある。全て自ら対応しなければならない。

 この解決に当たっては人間力が試される。ピンチにチャンスは、やはり人に媚びることなく、人に感じてもらえる〝徳〟を積んだ人であれば、案外、早く処理ができるようだ。生活で「まさか」を意識していれば「突発時」には余裕で対処できる。余裕こそ生き上手だろう。


 まさか探索で「まさか」の歌がいくつかあった。我々、情の国の住人だとするなら鳥井実作詞・中村典正作曲「まさか」を唄う松前ひろ子の演歌に魅かれるだろう。


 ♪登り坂 下り坂 そしてもひとつ 坂がある まさか まさかの 浮世坂

  泣きたいときには 泣くのもいいさ あなたおまえと 声掛けながら 愛と 涙で

  あなたと生きて行く ♪夫婦坂 子連れ坂 霧のむこうに 坂がある まさか

  まさかに つまずくな 苦しみ悲しみ 忘れた頃に 思いがけない 嵐が来ても

  握りしめてる この手は離さない ♪なみだ坂 苦労坂 中途半端じゃ 越えられぬ

  まさか まさかの 迷い坂 世間を気にして 背伸びをするな 同じ痛みを

  分け合いながら 夢を消さずに あなたと生きて行く


 いろんな坂を越えて生きて行く、が、坂の向こうに道は続いているということだ。

   


# by inakasanjin | 2022-06-03 09:00 | 田舎日記 | Comments(0)

 地名は歴史の証という。それで「続く命の院」いわゆる「続命院(ぞくみょういん)」を調べて見ると、九州では福岡県みやこ町犀川続命院、筑紫野市俗明院、佐賀県みやき町続命院の3カ所にある。名前の由来には、やはりドラマがあった。


 古代の太宰府は「遠の朝廷」と呼ばれ、納税や所用で多くの人々が集った。長い滞在者もいて病や飢えで命尽きる者も出た。この窮状を見兼ねた公卿の小野岑守(おののみねもり/778~830)の時代、弘仁13年(822)に救護・療養・宿泊施設として「続命院」が太宰府近郊に設置された。大宰府政庁の官営だった。施設には檜皮葺屋や食糧庫などが建てられ、観世音寺の僧が医療スタッフとして治療に当たったとされる。そして運営は、墾田(114町)が分散して与えられ、その収益が施設維持の財源に充てられたと伝わる。


 それで施設設置は「政庁」に近い筑紫野市の「俗明院」だった、と郷土史家の説もあるが、江戸時代の福岡藩の本草学者・貝原益軒(1630~1714)の調査では判明しなかったという。だとすると「俗明院」ではない、みやこ町とみやき町の「続命院」に焦点が当たることになる。そして墾田が分散して「続命院田」とされたことで、命を守る水田地域の広がる土地に「続命院」と名付けた由来は納得できる。その土地を少し追って見る。


 みやこ町の「続命院」は、町の南西部に位置。霊峰・英彦山に源を発する清流・今川の東側にあり、豊前国府跡の近くでもある。この地を中心に周辺地域の広い平野で、銅鏡が出土、箱石石棺墓なども確認されている。また土地を碁盤目状に区画した「条里跡」も遺り、豊かな田園地帯であったことが想像される。まさに墾田の推定地だと思われる。

 それに「続命院」は、ある研究によれば「日本最古の赤十字病院」とする説もあるといわれ「命」に関わる地の「古代の病院」だったとしても、決して不思議ではない。


 ところで東京の江戸川区にある「證大寺」の正式名称は「法輪山證大寺続命院」という。承和2年(835)大宰府での路上死の人々の看取りをと「続命院」の坊舎を設置。元和2年(1616)浄土真宗の寺院が再興。昭和52年(1977)九州の地から首都圏に移って開教した。阿弥陀如来、薬師如来、観世音菩薩を祀る。今、コロナの時代にあって、命を育んだ原点としての「続命院」の地を、改めて見直す時ではなかろうか。


# by inakasanjin | 2022-05-27 09:00 | ふるさと京築 | Comments(0)