2025年 01月 15日
1.17
街を燃え尽くす炎。崩れ去ったビル群や高速道路。
ショッキングなテレビの映像を見つめながら、
地震の恐ろしさを実感させられた1995年1月17日。
ボランティアの重要性が叫ばれたのも阪神・淡路大震災からだった。
震災の翌年、私は生徒とともに被災地を訪れた。
当時赴任していた小倉東高校野球部が、春の選抜甲子園に出場。
その際、生徒会顧問だった私に生徒からの提案があった。
“野球部は甲子園で頑張る。
応援に行く私たちも被災地のために頑張りたい”
野球部は1回戦で勝利。
その帰路、生徒会役員と吹奏楽部員40名ほどで、
神戸市の六甲アイランドにあった第五仮設住宅を訪ねた。
生徒達が集めた義援金を手渡し、一緒に花を植えた。
吹奏楽部も心をこめた演奏をし、涙を流しながら聞き入る被災者たち。
演奏する生徒も目に涙を浮かべていた。
数日後にあった甲子園での2回戦。
スタンドに被災者10数名が駆けつけ、
共に校歌を歌い、一緒に大声援を送ってくれた。
それから数週間。仮設の自治会長Yさんから、便りが届いた。
“あれから、1年3ヶ月。
悲しいことに世間では、あの震災になっています。
復興できる人とできない人の差が広がり、仮設に残る七割が高齢者。
残る人たちの心の支えは、『自分たちは忘れられていない』
これだけだと思います。
遠く北九州から神戸にエールを送って下さった。
皆さんのお小遣いから義援金を持ってきて下さった。
私達を見捨てていない…。本当にありがとうございます。
天災だから、しゃあないなぁ…。
開き直ってこれからのことを考えます”
便りを契機に、交流は仮設住宅が閉所されるまで続いた。
この間、生徒会は義援金を数度送り、被災者を文化祭に招待した。
美術部は復興への願いを込めて大きな絵を描き、仮設住宅に届けた。
集会所の中央に掲げられた希望の絵は、ずっと被災者を励まし続けた。
その後の東北や熊本、そして昨年元旦からの能登半島。
1.17と同様の映像を見て、仮設での涙を思い起こした。
現在も、多くの被災者が癒やせない心の傷を抱え、
能登では未だ、平凡な日常が取り戻せていない。
被災地の一刻も早い復興と心の平穏を祈りながら、
もう一度、Yさんからの便りを読み返してみた。
あれから30年……。
被災者を忘れてはならない。
被災地を見捨ててはならない。
若き教師時代。被災者と生徒の涙から大切なことを教わった。

