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極悪人にされた国家老犬甘兵庫


 人や国にいくら忠誠を尽くしても歯車が狂えば極悪人にされてしまう。世の常の姿。しかし何故そうなったか、後の人は歴史検証で真実に近づける努力が必要だろう。小倉藩の国家老・犬甘兵庫(いぬかいひょうご/1753~1803)の足跡を辿ってみたい。

 犬甘家は、信濃の小笠原家に仕えていた。武田信玄の小笠原攻略の凋落に反発。主君小笠原への筋を通し二木家と共に守り抜いた武家。後、小笠原筆頭家老の要職に就いた。 
 江戸時代、小笠原家は播州明石へ移り、寛永9年(1632)には小倉藩を治めていた細川忠利が熊本移封の後、忠利の正室千代姫の実兄である小笠原忠真(1596~1667)が小倉藩に移った。犬甘家もそれに従った。

 時が下がり、小笠原四代藩主忠総から忠苗―忠固に仕えた犬甘兵庫は、安永6年(1777)家老に列して「勝手方引受」に就任し「藩政改革と財政再建」の任に当たった。大飢饉に遭い、多数の死者や百姓逃亡など混乱が続いた。しかし身分制度の改革、倹約令など徹底した改革を行った。一方、運上金徴収法や田畑収穫量の増加を図る「新田開発」などの施策を推進。百姓には過酷な日々が続いたが、天明元年(1781)に着手した日明、中島、曽根などの干拓事業は5年余で約80数ヘクタールを完工。
 鬼の所業といわれた「犬甘改革」は大成功をおさめ、小倉藩の財政も黒字に好転した、が、犬甘と守旧派家老の反目は続いた。とくに信濃から小笠原家を支えてきた二木勘右エ門との確執があったようで「藩政乱脈の理由」により、兵庫は突然、一方的に蟄居を命じられて「頂吉(かぐめよし)牢獄」に投獄、そこで没した。藩改革による庶民の反発を「権力闘争」に利用された感、無きにしも非ず。忠苗はこの騒動の責任を取って辞任した。
 ところが次の忠固藩主時代にも騒動。小笠原家は家康を守り、支えたとして幕府では重用された。それをいいことに忠固は「大老になりたい」と江戸詰め家老を使って幕閣への接待を繰り広げ、藩の財政を苦しめた。大老推進派は城(白)に留まり、中止を唱える藩士は脱藩して筑前国の黒崎宿(黒)に集結。文化11年(1814)の内戦は黒が勝利する「白黒騒動」として伝わる。
 お家騒動は「小笠原諸礼忠孝」や「濃紅葉小倉色紙」の歌舞伎になった。劇では兵庫が極悪人の国家老として登場。でも兵庫の謎の獄死はあまりにも酷い最期。ただ綿都美神社(北九州市)に「兵庫の顕彰碑」の建つのが救い。人の誠も見える。

by inakasanjin | 2024-02-09 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)