2022年 12月 16日
求菩提の里の男ふたり
福岡県豊前市といえば修験の求菩提山(782㍍)がシンボル。穏やかな山容に親しんで人は育つ。大らかな気風、求菩提の里の大河内と久路土に生まれた男2人を追ってみる。
川のせせらぎが届く静かな大河内の医家の末っ子として明治31年2月5日に生まれた大辺男(おおべますお)は、幼い頃から「草芝居の役者の動作や物まねがとても上手」で合河(ごうがわ)小、中津商業を中退する16歳まで大河内で過ごした。後、明治屋に就職するが、芸の道を捨てきれずに新国劇の俳優養成所に入り室町次郎として活躍。大正15年(1926)日活に入社。芸名を郷里の「大河内」を採って大河内伝次郎(1898~1962)とした。
映画界に監督と俳優が組んで新風を起こしたのは、戦後は黒澤明と三船敏郎、戦前は伊藤大輔と大河内伝次郎と言われるまでになった。俳優として大きく飛躍した。彼の決めゼリフは「シェイハタンゲ(姓は丹下)ナハシャゼン(名は左膳)」だった。スピード感ある殺陣演技と独特な押しつぶした枯れ声での台詞は一世を風靡、時代劇の大スターに押し上げられて行った。まさに彼は自らの名の通り「たいへんなおとこ」になった。
黒土村の大庄屋で村長の長男として明治31年2月11日に生まれた島田義文は、裕福な家庭に育ち、中津中時代は若山牧水に心酔。早大に入学後は浅沼稲次郎らと行動をしながら童謡や詩を文芸誌に投稿。大正11年、野口雨情の門を叩いてから島田芳文(1898~1973)として本格的に歌の道を歩き始めた。
昭和6年(1931)には作曲家の古賀政男と歌手の藤山一郎とのコンビで発表した「キャンプ小唄」「スキーの唄」とくに「丘を越えて」は大ヒット曲になった。国民に親しい「丘を越えて」のメロディーは、道行く街角からよく耳に届いたそうだ。彼は「6人の子に童謡を作っては聞かせていた」り「暗い時代ではあったが、楽天家でユーモアに溢れ、夢を持った頼れる夫だった」と語っていた夫人の言葉を思い出す。
戦後は郷里で農業をして暮らした。ヒット曲の「丘を越えて」の詩碑は北軽井沢、多摩丘陵、豊前の生家の3ヵ所に、1人の〝作詞家〟の証として建っている。
大河内と島田は誕生日も1週間違い。歩んだ道はそれぞれ違うが、その道では名を成した〝大人物〟として国民に認められた。大河内の生家・大辺家跡には空に向かって広葉杉(県指定天然記念物・樹高30㍍余)が聳え立つ。2人の真っすぐに生きた姿を見るようだ。

