2022年 10月 28日
小倉城の「連歌始め」再興を
日本古来の伝統的な詩形の1つに、和歌の上の句(575)と下の句(77)を別人がそれぞれ交互に詠み連ねてゆく「連歌」がある。奈良時代に原型ができて室町時代に大成したといわれる文芸だ。厳密なルール(式目)のもと、百韻を単位として千句、万句があり、五十韻、世吉(44句)、歌仙(36句)などの形式がある。俳句も連歌の発句に拠るようだ。
福岡県行橋市の須佐神社では、享禄3年(1530)から「今井祇園奉納連歌」が、儀式として欠年なく執り行われている。全国でも唯一、伝統の連歌が受け継がれている。
この「奉納連歌」の継承と研鑽のため、故高辻安親宮司が、50数年前に「今井連歌の会」を発足させ「月次会」を神社で行ってきた。毎月、連歌愛好家らが集って連歌を巻いている。
連歌の会が、正月に巻く「連歌始め」は、1月11日、午前11時に始まる。現在まで守り、引き継がれている。この伝統は小倉藩の小笠原家に所縁あると聞く。
元来「連歌始め」は、朝廷の「歌会始」に倣って武家社会で行われた「柳営連歌」を指している。室町・江戸幕府は、将軍の教養として連歌会を開いた。年中行事の1つとして室町幕府は、正月19日に開き、江戸幕府は、正月20日だったが、承応年間(1652~55)以降は、11日に開くことになった。新年の「連歌始め」の習わしは続いた。
毎年、江戸城で開かれる連歌会の宗匠は、里村家の連歌師が代々選ばれて司った。
江戸幕府で宗匠を務めた里村家8代の里村玄川(1737~1818)は、宇佐の修験者・神刀院秀峰の子で、連歌師として豊前国で活躍。彼は小笠原家とも繋がり、小倉城で「柳営連歌」すなはち「連歌始め」を江戸城に因んで張行したと伝わる。今井連歌の会は、その伝を受けて「1月11日、午前11時」が、年始めの「発句定め」となっている。
小倉城は、勝山城、指月(しげつ)城、勝野城、湧金(ゆうきん)城、鯉城などと呼ばれる珍しい城。永禄12年(1569)に毛利元就、慶長7年(1602)に細川忠興、そして寛永9年(1632)に播磨国から譜代大名の小笠原忠真が入国。城を中心に武士、周りに町人が住み「九州のすべての道は小倉に通じる」といわれる長崎街道、中津街道が走る。
小倉は人や文化の往来盛んな街並みだった。祇園太鼓の「動」に城連歌の「静」が加われば、さらなる文化隆盛は確かだろう。新年、小倉城での「連歌始め」再興を願うばかりだ。