2022年 10月 14日
京都鴨川三条河原晒し首
人はおぞましい光景を見てきた時代を持つ。晒し首もその1つだろう。
平安時代の天慶3年(940)、京都鴨川三条河原に置かれた首が最初だと言われる。それは朝廷の世から武士の世にと、天皇への謀反を企て「将門の乱」で敗れた関東の豪族・平将門(903?~40)の首。京のまちに晒された首は、生きているように目を見開き、何日も爛々と輝いていたという。怨念の目が人々を怖がらせた。
ところが、歌人の藤六左近が「将門はこめかみよりぞ斬られける俵藤太のはかりごとにて」と詠んだ歌に、恨みも消えて成仏したとされる。それは「こめかみ」の「米」と、自分を討った藤原秀郷の別名「俵藤太」の「俵」とを合わせて「米俵」となった、この駄洒落の歌が世への未練を消え失せさせたとのことだ。
ともあれ、三条河原は千年にわたって斬首、晒し首の舞台として続いた。
江戸時代以前は罪人の処刑は広く公開するのが習わしだった。その為、人の往来盛んな三条河原は見せしめには格好の場所だった。将門以降、平治の乱(1160)の藤原信頼、源義平など。源平合戦(1180~85)では平宗盛・清宗・能宗、藤原忠清などが晒されている。また安土桃山時代の文禄3年(1594)には大盗賊の石川五右衛門(1558~94)が釜茹での刑に処され、翌年には一家惨殺があった。豊臣秀吉から秀次(1568~95)が謀反の疑いで高野山にて切腹、河原に晒し首とされた。首の前で妻子側室侍女など39名が処刑された悲劇も伝わる。さらに関ヶ原で敗れた豊臣家臣の佐和山城主・石田三成(1560~1600)も斬首刑になった。
江戸時代に入ると長宗我部盛親、豊臣国松それに多くのキリシタン信者の処刑が続く。
幕末には、攘夷運動の島田左近、本間精一郎など。戊辰戦争では、公家や幕府要人の多数が処せられた。さらに慶応4年(1868)には新撰組局長の近藤勇(1834~68)が板橋刑場で処刑された後、首が晒された。
とにかく、河原では時代を超えておびただしい人の血が流れ、鴨川の水が洗った。
晒し首神や仏の中に冴ゆ 加藤知世子
古地図見れば梟首と墨で書かれあり若き日われの働きいしところ 奥田亡羊
明治政府は明治12年(1879)1月4日、太政官布告第1号で「さらし首(梟首刑)」を廃止。それ以降「我に物の怪北にさまよう晒し首 隈治人」の首は見なくなった。