2022年 10月 21日
乞食俳人と乞食歌人
江戸期に乞食の俳人と歌人がいた。美濃国の八十村路通(1649~1738)の句と備前国の平賀元義(1800~65)の歌を追ってみる。2人は乞食ではあるが貴人だった。
松尾芭蕉が「和歌を詠む乞食」の噂を聞き、草津で出合った八十村に1首求めると「露と見る浮世の旅のままならばいづこも草の枕ならまし」と詠んだ。芭蕉と師弟の契りを結び俳諧の道に入った路通。江戸で一家をなせる者として其角、嵐雪などと共に彼の名もあったが「いねいねと人に言われつ年の暮」と「蕉門」では疎まれていた。しかし芭蕉は「自分亡き後、路通を見捨てず」と向井去来に伝えた。芭蕉死後、路通は俳諧勧進の漂泊の旅に出た。
肌の良き石にねむらん花の山
名月や衣の袖をひらつかす
芭蕉葉は何になれとや秋の風
残菊はまことの菊の終わりかな
ほととぎすに口きかせけり梅の花
平賀は、岡山藩士の嫡子。賀茂真淵に私淑し独学で国学を修めた。晩年、妻子で放浪生活を続けた。
彼の業績は忘れられていたが、明治に入って研究がなされ、諸所に散った歌の短冊が蒐集された。この研究に正岡子規が注目し「万葉調の歌を世に残したる者、実に備前の歌人元義1人のみ、実朝以来の歌人である」と高く評価して名が広まった。彼の「大君の春はくれども青葉つむわが山方は雪はふりける」などの歌碑が各所に建立されている。
牛飼の子らにくはせと天地の神の盛りおける麦飯の山
梅の花恋ひもつきねば高おがみ雪をふらせて我を偲ばすも
父の峰雪ふりつみて浜風の寒けく吹けば母をしぞ思ふ
玉くしげ二心なきますらをの心に似たるひひらぎの花
きはまりて貧しき我も立かへり富足りいかむ春ぞ来向かふ
人は、こじき、こつじき、ほいと、かたいなどと読む〝乞食〟を詠んでいる。
春寒や乞食姿の出来上がる 初代中村吉右衛門
むやむやと口の中にてとふげの事を呟く乞食もありき 石川啄木

