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豊前国の人は「天馬行空」

 百年前のパンデミック・スペイン風邪で逝った末松謙澄(1855~1920)の「没後百年記念事業」が、生誕地・福岡県行橋市で令和2年(2020)を中心に展開された。行橋駅に「若き造像」が設置され、新書(山口謡司『明治の説得王・言葉で日露戦争を勝利に導いた男』)などを刊行。郷土資料も見直された。


 山中英彦元行橋市歴史資料館長(81)は、森鷗外(1862~1922)の『小倉日記』を精査、改めて謙澄の偉大さを確認、郷土関係者などに語り伝えている。有難いことだ。その「精査資料」を戴いた。鷗外と謙澄の関係を中心に豊前国の人々との交流が纏められている。歴史にのこる交流を追ってみる。

 

 まず不思議なのは謙澄と鷗外が意外な糸で結ばれていたことである。謙澄は豊前国前田村(現行橋市)で生まれ11歳で村上仏山(1810~79)の漢学塾・水哉園に入門。一方、鷗外は石見国津和野(現島根県津和野町)で生まれ藩校養老館で学び、15歳で依田学海(1834~1909)に漢文の指導を受けた。

 鷗外が漢学を学んでいた頃、謙澄は、西南戦争を詠んだ「兵児謡」を納めた漢詩集『明治鉄壁集』(1879年刊)を出版した。この詩集の巻頭に山縣有朋が題辞を書き、清国の張斯桂の「序」と依田学海の「跋」が寄せられた。謙澄が鷗外の師と繋がっていた。


 さらに驚くのは、張の「序」文中に「(略)日本友人末松謙澄以詩鳴者也年方及壯才気過人其詩踔厲奮発巳有天馬行空之概(略)」とあり、如何に謙澄が自由闊達で躍動感ある漢詩を詠むかを「天馬行空」で讃えている。この言葉の出典は元の漢詩人・劉廷振が李白の詩の作風を称えて使ったとされる。

 鷗外は、この言葉を豊前国皆毛村(現豊前市)出身で、飛行機に夢をかけた若い発明家・矢頭良一(1878~1908)に贈っている。矢頭は、自ら製作した「自動算盤」を持参して小倉時代の鷗外を訪ねて親しく懇談した。後、鷗外は、若くして逝った良一に「天馬行空」の書を贈った。


 鷗外は多くの逸材を輩出した仏山と水哉園に感銘。行橋を三度訪ねたが「(略)午後又田塍を歩みて稗田を望む。村上仏山の郷なり。」と記すが、訪ねる機会はなかったようだ。

 晩年の鷗外は、豊前国久保村(現みやこ町)出身の漢学者・吉田増蔵(1866~1741)と共に『帝諡考』や『元号考』の研究に取り組み大正11年に逝った。増蔵は元号「昭和」を勧進して鷗外の夢を叶えたと言っていい。豊前国の人と鷗外の深い絆が見えた。


by inakasanjin | 2022-09-09 09:00 | ふるさと京築 | Comments(0)