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もう一人のシンドラー・樋口季一郎

 日本のシンドラーと云えば、1940年(昭和15)リトアニア領事館でナチス・ドイツ迫害からの難民6千人のユダヤ人に外務省訓令に反してビザを発給した外交官・杉浦千畝(1900~86)が広く知られているが、もう1人のシンドラーと言っていい陸軍軍人・樋口季一郎中将(1888~1970)を知る人は少ない。


 樋口は兵庫県淡路島出身。1919年(大正8)陸軍士官学校卒業後、ロシア語堪能でウラジオストクに赴任、ロシア方面を転々。25年ハルビンに移った。

 38年、ナチスの迫害から逃れるユダヤ人10数名がソ満国境のシベリア鉄道オトポール駅で避難していた。彼らが亡命先まで行くには満州国を通らなければならない。足止めになっているユダヤ人の惨状を見かねた樋口は、部下と一緒に衣類や燃料の配給、救護者の治療などにあたり、満州国へ「人道上の問題」として難民を受け入れ、早期の事態改善を強く働きかけた。毎日の難民殺到に「ヒグチ・ルート」を独断で設立、救出の発券手配に忙殺された。

 当時の松岡洋右満鉄総裁は、満洲里からハルビンまでの特別列車を無償で手配、下村信貞外交官の奔走で満州国外交部は無条件の滞在査証を発給。各部署で難民救済への協力がつながった。この救済は「オトポール事件」と云われ、ユダヤ系難民2万人余の命が助かったという。

 これにドイツ外務省は抗議書を日本外務省に提出。樋口は関東司令部に出頭し東条英機に面会「参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで、弱い者いじめすることを正しいと思われますか?」と問うた。樋口の言い分に懲罰を科さず、ドイツ抗議は不問に付された。

 この事件は難民数の多さなどが疑問視され、表に出ることはなかった。国民も知らなかった。


 また樋口は北海道を救った男としての実績も残す。ポツダム宣言を受諾し玉音放送後、ソ連通の樋口は「ソ連軍が銃を置かないことを予期」していた。案の定、8月18日、千島列島・占守島にソ連赤軍の上陸部隊が殺到。樋口は断固たる反撃でソ連軍抑止のため「大本営の命令」に従わず勇戦し撃退。この戦は日本が分断国家にされる窮地を救った勝利と云っても過言ではない。


 樋口は戦後、82歳で亡くなるまで徹底隠遁。イスラエルには功績のあった人や傑出した人物の名を記す「ゴールデン・ブック」がある。それにアインシュタインやモーゼなどと「偉大なる人道主義者 ゼネラル樋口」が記されていると聞く。


by inakasanjin | 2022-07-15 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)