2022年 06月 24日
日本初のミス日本・末弘ヒロ子
明治40年(1907)アメリカの新聞社が「ミスワールドコンテスト」を企画。日本の時事新報社に日本予選をとの打診があり「新興の日本帝国は、一事一物決して、人後に落つるべからざる(略)大いに薦むるの必要ある(略)断然応諾(略)日本美人写真募集の大計画を発表せり」として日本初の全国ミスコンテストが開かれることになった。
明治41年、大々的な全国キャンペーンが展開された。応募者は、芸妓や女優、モデルなどは不可、良家の淑女など自薦、他薦を問わず「写真選考」で初の「ミス日本」を決めた。応募者は7千人にのぼり、審査員は岡田三郎助(洋画家)高村光雲(彫刻家)中村芝翫(歌舞伎俳優)など各業界を代表する13名の審査員があたった。
日本ミスコン優勝者第1号は、福岡県小倉市(現北九州市)の末弘直方小倉市長の4女で16歳の末弘ヒロ子(1893~1963)に決定。彼女は、当時、学習院女学部3年生。7人兄姉で茶道、華道、舞踊、琴、ピアノなどを嗜み〝小倉小町〟と呼ばれる美貌で聡明な子女だった。
審査員の絶賛を得て1位に輝いた彼女の写真は、主催国のアメリカにも送られて披露。一躍、時の人として数百の縁談も舞い込んだが、予期せぬドラマが生まれた。
学習院では、彼女がコンテストに参加したことで、直ちに協議が行われ、女学部長の強硬論により「諭旨退学処分」が決定。彼女は「甘んじて」それに従った。院長は乃木希典だったが、彼は同意も反対もしなかった。しかし「写真応募」は義兄が勝手にしたことを知って「退学処分」が間違いだったことを乃木は悔やんだと言われる、が、のちに「乃木将軍の大岡裁き」の逸話を生むことになる。乃木は中退者となったヒロ子のために、良い縁談を、と各方面に働きかけて結婚相手を捜した。中々見つからない中、野津道貫陸軍大将が「長男の鎮之助ではどうか」との申し入れがあった。彼は陸軍少佐で侯爵、そして父の跡を継いで貴族院議員の将来が決まっていた。2人は見合いをすると、双方大いに気が合い、両家ともに快諾。乃木の媒酌で結ばれた。捨てる神あれば拾う神あり、で「乃木逸話」として伝わる。
彼女はガンで伏せった義父の献身的な看病など良妻ぶりも発揮。次女(真佐子)は倉敷絹織(現クラレ)社長・大原総一郎に嫁がせた。また姉(直子)の孫はジャズピアニスト山下洋輔(1942~)で、ヒロ子を「カイブツ」と呼んでいたという随想を残している。