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竹下しづの女、3つの碑 

 令和3年(2021)7月、福岡県行橋市歴史資料館で「須可捨焉乎・・・炎の女流俳人竹下しづの女」企画展が開かれた。昭和26年(1951)に亡くなって70年を祈念しての展覧会である。郷土に残る短冊や関係資料を展示したもので、しづの女の時を刻んだ歩みが偲ばれる。この企画展に「しづの女、3つの碑」を寄稿した。記録を残す。


  「しづの女、3つの碑」

    女流俳句の黎明期、竹下しづの女は、大正8年(1919)次男・健次郎誕生後、

   吉岡禅寺洞主宰「天の川」を知り、指導を受け、処女作は「警報燈魔の眼にも似て

   野分かな」だった。翌年、高浜虚子主宰の「ホトトギス」に投句を始め、6月号に

   「いつも此溝破れ鍋沈み田螺かな」が初めて採られた。そして8月号で、女流俳人

   初の「巻頭」を飾った。彗星のように登場して日本俳壇をあっと言わせ席捲した。

    巻頭7句の1句が代表作となる「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎」だった。

    しづの女は、明治20年(1887)行橋市中川に生まれ、福岡女子師範卒業後、

   小学校訓導を経て師範助教諭となり国語と音楽を担当。大正元年、農学校教諭の水

   口伴蔵と結婚(養子縁組)して福岡で暮らした。2男3女を育てる傍ら学生俳句連

   盟の句誌「成層圏」で中村草田男とともに学生らに俳句を指導、若い俳人を育てた。

    昭和54年、生誕地の中川に地元有志らで顕彰句碑の建立がすすめられた。

    碑は、郷土の千仏石に、しづの女揮毫の「緑蔭や矢を獲ては鳴る白き的」が原寸

   大で刻まれて完成した。ところが前年、中川の墓地に親族らによる黒御影石に「緑

   蔭や」3文字を刻む印墓が据えられていた。また平成3年(1991)には中京中

   学校の校庭に白御影石の「ちひさなる花雄々しけれ矢筈草」が父母教師会によって

   建てられた。日々、生徒らの学びを見守っている。これは、しづの女の初句集『颯』

   の扉にある高浜虚子の序句「女手のをゝしき名なり矢筈草」と対になるもので、人

   間の逞しさを詠んだものだろう。矢筈草は、茎が丈夫で踏みつけられても、踏みつ

   けられても、なお強く育つマメ科の小さな雑草であるが、生きる夢の草でもある。

    3つの碑は、肝っ玉母さんらしくドンと、陽を浴びて郷土の土に建っている。  


by inakasanjin | 2022-05-20 09:00 | ふるさと京築 | Comments(0)