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東京「下町」「山の手」大空襲

 昭和20年(1945)の東京大空襲は「下町だけでなく山の手も酷かった」と聞いた。昭和19年11月から翌年の終戦までの間、アメリカ軍の無差別攻撃は百回を超えたとされる。象徴的なのは3月10日の「下町空襲」と5月25日の「山の手空襲」のようだ。今、3・10下町空襲も5・25山の手空襲も記憶は薄いようだ。2つの空襲を追う。


 3月10日の「下町空襲」は、午前0時8分から午前2時37分に下町住宅密集地を狙い、アメリカ軍の戦略爆撃機B29の344機による深夜空爆が実行された。焼夷弾は1665トンを投下。焼夷弾は攻撃地帯を焼き払うことが目的でナパーム製高性能焼夷弾は火の壁を作って住民の退路を断った。運悪く、強風も吹き荒れ、火勢は勢いを増して広がった。炎は一夜で下町を焼け野原にした。2時間余で〝帝都東京〟は破壊された。そして死者10万人超、負傷者11万人余、被災者100万人超の惨憺たる情景が目の前に現われた。


 5月25日の「山の手空襲」は、午後10時22分から2時間余、B29の470機が夜間空襲を行い、3300トンの焼夷弾を投下した。表参道のケヤキを焼き、青山通りの激しい火と熱風は多くの人の逃げ場を奪った。昭和天皇・皇后も御文庫に避難、皇居も国会議事堂も東京駅も被災した。死者3651人、これは3・10を教訓に疎開が進み、人々は消火活動よりも避難を優先した結果だと言われる。罹災者は56万人余。これで市街地は壊滅状態で「東京空襲の総仕上げ」が完了、世界史上例を見ない「大空襲」は終わった。


 墨田区には「下町空襲」の電話局殉職者「慰霊碑」が作家・吉川英治の碑文揮毫で建つ。

 「(略)昭和二十年三月九日夜半における大戦の大空襲下に 国を愛する清純と自らの使命の為 ブレストも身に離たず 劫火のうちに相擁して仆れた主事以下の男職員三名ならびに女子交換手二十八名が その崇高な殉職の死を 永遠となした跡である(略)」


 港区には「山の手空襲」で遺体が積まれていた場所に「和をのぞむ」追悼碑が建つ。

 「太平洋戦争の末期、昭和二十年五月、山の手地域に大空襲があり、赤坂・青山地域の大

半が焦土と化しました。(略)戦災により亡くなった人々を慰霊するとともに、心から戦争のない世界の平和を祈ります。(略)この地に平和を願う記念碑を建立します(略)」


 子々孫々に伝えることが人の道ならば、忘れないよう、伝える努力は怠るまい。


by inakasanjin | 2022-04-01 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)