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朝鮮半島の調査官・小川敬吉

 郷土には、まだまだ知られてない偉人、賢人が、忘れられ、隠れている。福岡県築城郡宇留津村(現築上町)生まれの小川敬吉(1882~1950)もその1人だろう。

 近年「無名の調査官・小川敬吉」とメディアで紹介されるなど「隠れた資料」とともに彼の評価が始まった。平成28年(2016)に佐賀県立名護屋城博物館で「朝鮮総督府の文化財調査官が遺したもの」として「小川敬吉資料展」が開かれた。足跡を辿ってみる。


 小川は呉服商の長男として生まれた。東京の工手学校(現工学院大学)で学び、明治40年(1907)に内務省に入り、関野貞(東大教授/建築学)のもとで寺社などの古建築の実測・製図にあたった。大正5年(1916)には、朝鮮総督府博物館に勤務、のち技手(技官)に就き、朝鮮半島の古墳発掘、石造物、古建築の調査、仏教建築の修理など、約30年にわたって朝鮮の文化財調査の職務に従事、朝鮮半島全域の「調査実績」を残している。

 20世紀初頭の朝鮮半島では、鳥居龍蔵(人類学)や今西龍(朝鮮史)、黒板勝美(考古学)などの日本人研究者による古蹟調査が行われており、小川もその1人だった。彼は平壌の楽浪古墳や高句麗古墳、慶州の新羅古墳の発掘調査などを実務面で支えたといわれる。

 また、後に韓国の国宝になる「修徳寺大雄殿」の修理にあたっては、部材の墨書から建築年代を高麗時代の仏教建築だと突き止めるなど、貴重な調査結果も残している。


 ところで「小川発掘」は、日韓の文化学術交流資料を蒐集する名護屋城博物館が「古書店目録」から「小川資料」に着目、入手から始まるのだが、実は、平成20年(2008)に、韓国で修徳寺大雄殿の創建700年記念展があり、彼の「当時の調査資料」が出品されたことで「小川敬吉の業績」が広く知られることになり、注目を集めたのが最初だった。

 やはり、どんな道であっても地道な作業を続け、確かな実績を積むことで、時代が、やがて、その人の歩いてきたコツコツ人生に光を当てるようだ。誰かが見ているのだ。

 彼は、総督府を昭和19年(1944)に退官、帰郷。戦後は八津田村の村長を務めた。

 小川の妻・サヨ子さんの「帰宅して〝ただいま゛というなり部屋に籠り、食事の時以外はずっと図面を引いていた」という言葉は、いかに彼が研究者として謹厳実直だったかがわかる。100年前、朝鮮半島の歴史を伝えた日本人がいたことを忘れてはなるまい。


by inakasanjin | 2022-02-25 09:00 | ふるさと京築 | Comments(0)