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国分寺と安国寺

 日本では538年の仏教伝来以降、遣隋使や遣唐使などを通して大陸の仏教文化を知り造寺の機運が高まった。寺は、自宅に持仏堂を造り、家の繁栄と子孫安泰を願う私宅寺院とした蘇我稲目の「向原寺」が最初だった。そして聖徳太子が父のために「法隆寺」曽我氏も「法興寺」を建立して仏法の興隆を図った。後、全国規模で寺院建立が進められた。


 国分寺は、奈良時代の天平13年(741)に聖武天皇(701~56)が仏教による国家鎮護のために日本の各国に国分寺と国分尼寺の建立を命じ創建された寺院である。

 天皇の「国分寺建立の詔」は、国に七重塔を建て、僧寺と尼寺を設置、名称は金光明四天王護国之寺(国分寺)と法華滅罪之寺(国分尼寺)とする。さらに寺の財源には僧・尼寺ともに田十町(10㌶)を施す、ただし僧は20人、尼僧は10人を置くこととするなどが定められた。奈良の東大寺を総国分寺、法華寺を総国分尼寺の総本山と位置づけて畿内に5、東海道に15、東山道に8、北陸道に7、山陰道に8、山陽道に8、南海道に6、西海道に9、それに壱岐と対馬には島分寺が置かれ、全国68カ所に建てられた。ところが国家事業として推進したにも拘らず、律令体制が衰退していくにしたがって官の支援が無くなると、平安時代末頃までには、ほとんどの寺が消滅していった。


 安国寺は、足利尊氏(1305~81)が延元元年(1336)に九州から東上、楠木正成を破って武家貴族として室町幕府(足利幕府)を創始するが、後、臨済宗の禅僧・夢窓疎石(1275~1351)の勧めにより、弟の直義(1307~52)とともに国家安寧を祈願、南北両朝の戦没者の菩提を弔うために延元3年から10年余をかけて聖武天皇の国分寺に倣って全国66カ国2島に1寺1塔(安国寺/利生塔)を設けた。そこに朝廷から賜った仏舎利も納めた。が、暫くして歴史上最大かつ最悪という尊氏と直義の兄弟喧嘩〝観応の擾乱〟が起こり、混乱するが、3代将軍義満になって世の中が落ち着いた。


 足利の世は続いたが、元亀4年(1573)15代将軍義昭が織田信長によって京都から追放された。室町幕府は終焉を迎えた。足利の滅亡によって文化的、政治的意義の大きかった安国寺と利生塔も衰退の一途を辿るしかなかった。盛者必衰の習い、か。

 現在、全国のお寺さんは77254寺院。日々、御仏の前で手を合わせる姿がある。


by inakasanjin | 2022-01-28 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)