2021年 12月 10日
日本のジャンヌ・ダルク
昭和35年(1960)6月15日、国会構内で全学連と警察官が衝突した反安保デモの中、東大の女子学生・樺美智子さん(1937~60)が胸部圧迫で窒息死。強い正義感を持った彼女は安保闘争に参加、活動していた。フランスの守護聖人の一人であるジャンヌ・ダルク(1412~31)に重なる樺の墓誌には「最後に」の詩が刻まれている。
誰かが私を笑っている 向こうでも こっちでも 私をあざ笑っている
でもかまわないさ 私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり 各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか 「最後に笑うものが 最もよく笑うものだ」と
でも私は いつまでも笑わないだろう いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ ただ許されるものなら
最後に 人知れずほほえみたいものだ 1956年 美智子作
彼女は、兵庫県神戸市で社会学者の娘として生まれ東大に入学。国内で大きなうねりになった「安保改定阻止」の急進的活動家として知られ、圧死したことで殉教者となった。後の世では「60年代を超えた者たち」の確かな証として彼女は詠み続けられる。
一粒の麦芽ぐむ朝、いちにんの女子学生の死は泥寧に 太田青丘
六月の雨は切なく翠なす樺美智子の名はしらねども 福島泰樹
樺美智子へ!もし一片の恥あらばわが魂の四肢の十字架 三枝浩樹
デモに散りし樺美智子の顔ふとも今なお背負うかなしみなりて 岡貴子
樺さん今もどこかに棘ささるあの日の僕は図書館にいた 伊澤敬介
六・一五ぽとりと落つる夏椿その白さこそ樺美智子よ 重信房子
三十九年経て立つ南門かの夜を樺美智子は足もとで死す 川名つぎお
あの日から半世紀経て樺忌の六月一五は年金支給日 山内利夫
安保より辺野古へたどる道の辺に樺美智子はとまどひをらむ 三ツ木稚子
6月18日、国会を33万人が取り囲んだ後、日米新安保条約発効とともに岸信介首相は退陣を表明。24日に樺の葬儀が日比谷公会堂で行われた。毛沢東から「樺美智子は全世界に名を知られる日本の民族的英雄となった」のメッセージが寄せられた。母・光子の手になる遺稿集『人しれず微笑まん』はベストセラーになった。樺の心は今も息づく。