2021年 11月 05日
ガラシャを介錯した小笠原秀清
明智珠(明智光秀3女―1563~1600)は、天正6年(1578)織田信長のすすめで細川忠興に嫁いだ。本能寺の変(1582)後「逆臣の娘」汚名防止のため、忠興は、珠に小侍従や待女らを付けて丹後に隔離、幽閉。信長死後、秀吉の計らいで珠を細川大阪屋敷に戻して監視下に置いた。禅宗信仰の珠だったが、忠興から聞く高山右近のカトリック話にいつしか魅かれていった。天正15年、秀吉がバテレン追放令を出した後、密かに洗礼を受け、ラテン語で恩寵を意味する名(ガラシャ)を授かった。
忠興出陣の際は「我が不在の折、妻の危機では、まず妻を殺し、全員切腹して妻とともに果てよ」と、家臣に伝え置くのが常だった。慶長5年(1600)上杉征伐の時、ガラシャを人質にと、石田三成は細川屋敷を取り囲んだ。ガラシャは「自分だけで死ぬ」と、侍女らを外に出した。が、キリスト教は自殺を禁じているため、家老の小笠原秀清は、胸を長刀で突き刺す介錯をした。そして彼女の遺体が残らぬよう屋敷を爆破、炎上させて自害したと伝わる。ガラシャらの壮絶な死に石田方は驚いた。彼女の詠んだ辞世が残る。
散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ
小笠原秀清(1546~1600)は、信濃小笠原から分れた京都小笠原の生まれで奉公衆として室町幕府に仕え、代々将軍の弓馬師範を務める家柄であった。しかし永禄の変(1565)後、浪人となっていたが、丹後で細川の客分となり、剃髪して少斎と号した。細川の家老として仕え、子息などは細川の近親などと縁戚を結んで重職を担うことになった。またガラシャ夫人を見守る任務も果たし、慶長5年7月17日、彼女の最期を確実に看取って、ともに炎の中で、生涯を閉じた。ガラシャの介錯はすぐそばの人物だった。
介錯と言えば、江戸時代、刀剣の試し斬りを務める山田家があった。首切り、人斬り浅右衛門と呼ばれ、死刑執行も兼ねた介錯人・山田浅右衛門がいた。死の穢れを果たす役目の浪人だった。例えば7代山田浅右衛門吉利は、安政の大獄(1858)で吉田松陰、橋本左内などを処刑した。介錯は、明治15年(1882)斬首刑の廃止まで続いた。
ガラシャは側用人・秀清の介錯で旅立ち、大阪の崇禅寺に眠り、堺のキリシタン墓地や京都、熊本などにも墓があると聞く。そばには秀清が寄り添っている気がしてならない。