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8月7日、グラマン「襲撃」に

 広島に原爆が投下された翌日、福岡県築上町の上城井(かみきい)小学校に米軍爆撃機が飛来して機銃掃射をしたなどの記録が遺る。校庭一角の「慰霊碑」を忘れてはならない。


         太平洋戦争戦死者 慰霊碑

   昭和二十年八月七日午前十一時二十分 米軍戦闘機二機飛来警報が発せられる中

   校庭を避難中の教師学童職員を機銃により無差別攻撃 常軌を逸した行為により

     教師 中村幸子 二十一歳   男子生徒 田中和彦 十一歳

     女子生徒 向井光代 十二歳  用務員 田中 花(田中和彦さん母) 

     他に奥富美子先生他 学童五名重軽傷


 碑には亡くなった4名と重軽傷の記述。碑に刻まれた「奥富美子先生」の娘・石井倫子さん(72)から「母の話」を訊いた。富美子さんは導かれるままに、ただ歩んだようだ。

 母はその日、空襲警報の中、中村先生と共に児童を帰宅させ、避難を終えた後、玄関先で偶々、用事のあった児童と会話をしていた。そこへグラマンが来た。爆弾が落ち破裂。するとノコギリ状の鉄の棒が飛び散り回転、凄まじい破壊力で人間を抉り、突き刺し、命を奪った。母は中村先生を捜して手を伸ばしたが、届かなかった。母は腕と足の22カ所に深い傷を負っていた。村人が集った。校庭のムシロに遺体が並んだ。祖母がかすかに息をする母を見つけて片山医院に運んだ。母の治療は1年半に及んだ。その間、児童らは毎日のように交代で病室を訪ね、歌を唄って母を励ました。母の体には破片が残り完治することはなかった。しかし「生きるために」母は働いた。それが皮肉にも、母を殺しかけた駐留米軍の通訳だった。母はアメリカのワイオミングで生れた帰国子女。女学生の頃に帰国し教員になったが、半死の負傷後、職を失った。傷、快復後、昭和30年、防衛庁事務官になり、堪能だった英語で飛行機整備などの米国マニュアル解説書を翻訳、表彰も受けた。母は寡黙で「戦争の傷」を語ることはなかった。ただ、後年、母の同僚だったブルーインパルス操縦士の「お母さんは、土地の人とアメリカ兵を繋ぐ架け橋だった人ですよ」は、93年の生涯だった母の「命を大切に、清らかで嘘のない教えにつながる」と倫子さん。母の深い想いが伝わればと願う。米国で生まれ、米軍に傷つけられても、なお日米を繋ぐ道を歩んだ女性がいた。


by inakasanjin | 2021-10-29 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)