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明治の紫式部・税所敦子

 ドラマを持つ女性は、やはり凄い。京都で武士の娘として生まれ、歌の才に長けた税所敦子(さいしょあつこ/1825~1900)の生涯を追う。彼女は父の寵愛を受け、幼い頃から僧や歌人の歌会に連れていかれた。6歳の時「そなたも歌を」と勧められ詠んだ。

 

   我が家の軒にかけたるくもの巣の糸まで見ゆる秋の夜の月


 父は僧の師に敦子の指導を願い『万葉集』や『源氏物語』『四書五経』などを学ばせた。

 師は彼女の才を伸ばすため、歌会に参加させて太田垣蓮月(1791~1875)などの歌人を紹介、交流させた。和歌や学問を学び、薩摩藩士の税所篤之を識り、結ばれるが、男尊女卑の中、夫の暴力や遊郭への出入りなどの理不尽に「私が至らないから」と耐え偲んだ。やがて夫の素行もおさまり、仲睦まじい夫婦となり、娘も生まれた。出産の喜びを詠んだ。


    月のぼり吾子のねすがたあどけなくまめなりかしと祈るちちはは


 夫は44歳で逝った。彼女は生涯独身を誓い、黒髪を切って、歌を添え、柩に納めた。


    黒髪にうき身をかふるものならば後の尾までもおくれざらまし


 彼女は「姑に仕えて子らを育てる」と、夫の郷里の薩摩へ行く決心をしたが「よそ者を受け入れない土地だ」と親戚や友から反対された。皆の助言に感謝しながら京を発った。


    子を思う道なかりせば死出の山ゆくもかえるもまどはざらまし


 薩摩の税所家は夫の弟一家も同居する10人を超す大家族だった。また姑は「鬼婆」と渾名される意地悪な性格だった。敦子は姑に誠心誠意尽すが、なかなか通じず辛さを詠んだ。


    朝夕のつらきつとめはみ仏の人になれよの恵みなりけり


 彼女は人知れず涙を拭い、仏の心にすがった。辛い日々の中、姑が「あんた歌ができるそうじゃな〈鬼ばばなりと人はいうらん〉に上をつけてみぃ」と敦子に云った。


    仏にも似たる心と知らずして鬼ばばなりと人はいうらん


 姑は、この歌を聞き、心折れ、涙した。その後、何事も敦子でなければならなくなった。

 彼女は薩摩の島津斉彬に才徳を認められた後、縁あって宮中へ出仕。歌を好んだ明治天皇と昭憲皇太后から寵愛された。明治の紫式部とも呼ばれ、最後のご奉公は歌会始の一首。


    大御代のめくみの露にそみしよりまつはかはらぬ色となりけむ

 

         

 


by inakasanjin | 2021-10-22 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)