2021年 09月 17日
外国籍の関取第1号は「豊錦」
農業移民の子として生まれたハーリー尾崎喜一郎(1920~98)は昭和初期の大相撲力士でアメリカ国籍関取第1号「豊錦」として記録されている。父(喜代太郎)は明治5年(1872)に築城郡高塚村(現築上町)の農家に生まれ、地域の宮相撲に「三浦潟」の四股名で出場する相撲好きだったようだ。喜代太郎は、明治20年代の出稼ぎ移民ブーム時、アメリカで農園経営者になっていた兄(幾太郎)の誘いで、明治33年(1900)にコロラド州ピアスに移住した。後、兄の農園を引き継いだ。そこで、喜一郎は姉2人、弟2人の長男として生まれた。家庭内では日本語、家の外では英語の生活だった。
農業生活の中、喜代太郎が熱心な仏教徒だったことから日本からの僧侶は尾崎家によく宿泊した。ある日、広島の僧が泊まった折「息子さんはいい体だ大相撲の力士にしませんか」に若い時分、相撲を取っていた喜代太郎は受け入れ、息子に「本物の相撲取りになれ」といった。喜一郎は素直に頷いた。体は身長188㎝、体重96㎏。昭和12年(1937)僧と供に日本に渡航。後、出羽海親方に「日系2世はお前で6人目、みんな続かなかった。お前はネをあげるなよ」と言われて入門。翌年1月に初土俵を踏んだ。
四股名は郷里の旧名「豊前国」の「豊」に「錦」をつけた「豊錦」とした。相撲は長身を生かす右四つからの突っ張り、左差しの「吊り出し」や「突き出し」が得意技だった。
成績は初土俵以降、負け越し無しで番付を上げていった。昭和18年に十両に昇進、米国籍初の関取となり、三場所連続勝ち越しで翌年、初入幕。
しかし「アメリカのスパイ」として特高の厳しい監視下に置かれていた。というのは尾崎家の姉2人は日米両国籍だったが3兄弟は米国籍のみだった。それで彼は相撲巡業もままならず、周囲の説得で日本国籍を取得。間もなく兵隊にとられた。戦後、復員したが土俵に上がることはなかった。彼の6年余の相撲人生は負け越し知らずの成績だった。
とにかく外国籍で「関取」と呼ばれる力士は「豊錦」が最初だった。
終戦翌年、豊錦は廃業。彼は連合国軍司令部関連の会社に入社して通訳となった。後、昭和25年に東京の旅館を買って「豊旅館」を開業、繁盛した。その後、日米間も国交再開でコロラドの家族とも再会、往来した。平成5年(1993)旅館経営を止め、郷里の高塚に帰省して余生を送り、78歳の生涯を閉じた。いま隆盛の外国人力士の活躍を想う。