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原爆川柳……名前を橋に書いて

 何気なくネットに「原爆川柳」と入力、クリック。すると「森脇幽香里の世界川柳ホームページ」が出て、開くと「柳歴及び略歴」の紹介があった。追ってみる。

 森脇幽香里(本名/馬場文代1908~2003)は、明治41年、広島市で生まれ、昭和2年、19歳から父の主宰する川柳会に投句をはじめた。後「福助」「グリコ」「サントリー」などの広告を担当した大正・昭和の川柳作家・岸本水府(1892~1965)の指導を受けることとなる。多くの句作を残し、94歳で永眠するまで川柳にかかわり続けた女性だった。著書に『きのこ雲』『あめりか川柳』などがある。彼女の原爆川柳を見る。

 昭和20年8月6日、朝、二児の母である幽香里さんは出勤のため貨車で広島駅に向かっていた。貨車が広島駅ホームに滑り込んだ途端、ピカッと光り、爆風で貨車から振り落とされた。そこで見たものは鉄骨ばかりになった駅舎だった。その時の景色が言葉に残った。


   灰浴びた逆髪のまま逃げまどい/逃げまどう両手に焼けた皮膚が垂れ

   閃光の一瞬に目も肌も焼け/生きている一分の息で母を呼び

   水槽に首突っ込んで死んでおり/生きていた名前を橋に書いて死に


 2人の子供さんは火傷を負い家に帰って来た。


   街の火は今夜も死体焼いている/人を焼くにおいの中で寝る闇夜

   原爆と知り焼け跡へ人とだえ/焼け跡の風に遺髪の玉走り

   抜け髪のタボがさまよう中心地/ヒロシマの水漬く屍となった川


 彼女の生涯は川柳とともにと言っていい。昭和40年代、スイスのチューリッヒで日瑞親善。50年代、オーストラリアのシドニーに住み日豪親善。さらにアメリカのロサンゼルスで日米親善に努めた。シアトル北米川柳吟社からは、川柳指導奉仕への感謝状が贈られた。60年代は広島市文化功労者としての表彰を受け、広島県湯来町に「涅槃までわき見道草して歩き」の句碑建立もなった。広島の廃虚から子を守り生き抜いた川柳魂を思う。


   たんぽぽの種ふんわりと旅にたち/神様にもらう月夜の美しさ

   死ぬときは孔雀も羽をおいて死に/人も木もそびえてからの風あたり


 彼女は「何ごともなかったようにともに老い」と晩年、詠んだ。ふさわしい川柳だ。


by inakasanjin | 2021-08-20 09:00 | 文学つれづれ | Comments(0)