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殉職した鉄道員とバスの車掌

 北と南の大地に「殉職碑」が建っている。北海道和寒(わっさむ)町に「長野政雄氏殉耺の地」碑、長崎県時津(とぎつ)町に「打坂(うちさか)地蔵尊」碑。鉄道員だった長野政雄(30)とバスの車掌だった鬼塚道男(21)を弔う「碑」だ。2人は、突然「坂」を下り始めた列車とバスに乗車。それぞれ身を投げ、乗客の命を救い、自らの命を失った。


 長野は、鉄道の庶務主任であり、敬虔なクリスチャンだった。ある牧師は「明治42年(1909)2月28日は、私どもの忘れることのできぬ日であります。すなわちキリストの忠僕・長野政雄兄が、鉄道職員として、信仰を職務実行の上に現し、人命救助のため殉職の死を遂げられた日」と記す。

 また上司、同僚、下僚、友人などから敬われ、愛され、親しまれ「自己に厳格、他人に寛大」で「あらゆる美徳を兼ね備えた人物」として評価された彼の乗り合わせた列車が、急勾配の塩狩峠にさしかかった折、最後尾の客車連結器がはずれて客車は急速度で坂を下り始めた。あわや脱線転覆にと車内は大混乱。しかし彼は、デッキのハンドブレーキ装置に気付き、力一杯締め付けた。列車の速度は弱まり徐行になったが完全には止まらない。少しして「ゴトン」と客車が止った。皆助かった。客車の下には血まみれの長野の遺体があった。彼は、三浦綾子の小説『塩狩峠』に登場する。映画にもなった。


 鬼塚は、戦後の木炭バス時代の車掌で、乗客を助け、燃料も管理、火焚きには気を配る激務をこなしていた。彼は長崎自動車(長崎バス)入社後「素直で物静かな性格の青年」として認知されていた。

 昭和22年(1947)9月1日、長崎への主要道路の時津街道の地獄坂と恐れられていた「打坂峠」で路線バスのエンジンが停止した。バスは坂を後退し始めた。現場の片側は高さ10㍍の崖。転落すれば大惨事のバス事故は免れない。彼は、運転手の指示に従い、バスから飛び出て、輪の下に「石などの処置」を行うが、効果がなかった。バスは加速がついて下り始めた、崖まであとわずかというところでバスが停止した。彼が咄嗟に身体を丸め、バスの後輪に身を投げ入れ、輪止めになった。事故後、車体を持ち上げ鬼塚を救出するが、病院で亡くなった。

 いつの日か「鬼塚車掌」の記憶が人から消えた。後に事故を知る者がラジオ番組に取り上げた。彼の「勇気ある行動」を称える「碑」が出来た。


 若い二つの「命」は多くの乗客を救って逝った。「碑」はその姿を永遠に伝える。


by inakasanjin | 2021-07-23 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)