2021年 04月 16日
久女としづの女は教師妻
大正から昭和にかけての女性俳句の黎明期、北部九州の小倉と行橋で2人の女流俳人が活躍した。杉田久女(1890~1946)と竹下しづの女(1887~1951)だ。
久女(本名、久)は鹿児島県鹿児島市生まれ。官史の父と共に台湾などで生活をした。東京女子師範卒業後、小倉中(現小倉高)の美術教師の杉田宇内に嫁ぎ、小倉で暮らした。
しづの女(本名、静廼)は福岡県行橋市生まれ。福岡女子師範卒業後、郷土小学校訓導を経て小倉師範の助教諭、後、農学校教師の水口伴蔵と結婚(養子縁組)し、福岡に移る。
久女、しづの女共に夫は教師。お互い家庭生活の中、句作を始め『ホトトギス』に投句。
鯛を料るに俎板せまき師走かな 久女 (大正6年1月号に初掲載)
いつも此溝破れ鍋沈み田螺かな しづの女 (大正9年6月号に初掲載)
久女の出世作は『ホトトギス』の「雑詠」だったが、しづの女は「巻頭」を飾った。
花衣ぬぐやまつはる紐いろ〱 久女 (大正9年6月号「雑詠」)
短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎 しづの女 (大正9年8月号「巻頭」)
久女もしづの女も同じ時期、何故か、次の句などを詠んだ後、句作を中断する。
カルタ歓声が子を守るわれの頭を撲って しづの女 (大正10年)
足袋つぐやノラともならず教師妻 久女 (大正11年)
2人は『ホトトギス』で競作。主宰高浜虚子との贈答句が久女、しづの女共にある。
初夢にまにあひにける菊枕 虚子
愛蔵す東雛の詩あり菊枕 久女
女手のをゝしき名なり矢筈草 虚子
ちひさなる花雄々しけれ矢筈草 しづの女
2人は俳誌を発刊している。久女は『花衣』(昭和7年)を創刊。しづの女は高等学校俳句連盟を結成し中村草田男と指導する機関紙『成層圏』(昭和12年)を刊行した。
近年、2人を「万葉のしづの女」「王朝の久女」との評価がある。2人の辞世を見る。
無憂華の木陰はいづこ仏生会 久女 (昭和21年)
ペンが生む字句が悲しと蛾が挑む しづの女 (昭和26年)