2020年 10月 30日
三四郎の池と森
夏目漱石の長編小説『三四郎』は、明治41年(1908)朝日新聞に連載された作品で、時代を超えた青春小説として読まれ続けている。この小説、偶然にしても2つの場所を不思議な縁で結んでいる。それは東京大学の本郷キャンパス内の「三四郎の池」と福岡県立育徳館高校内にある「三四郎の森」だ。
東大本郷キャンパスは、江戸時代、加賀藩前田家の上屋敷だった場所で前田利常により寛永3年(1626)に池のある名庭園が造られた。池を心字池と名付け、庭園の名を「育徳園」と呼んだ。一方、教育の場として福岡の京都郡豊津の地に明治3年(1870)藩校「育徳館」ができた、が、明治12年には県立豊津中学校に改称、昭和23年(1948)県立豊津高等学校になり、平成16年(2004)には県立育徳館中・高一貫校として、再び「育徳館」の名が戻った。今「三四郎の池」と「三四郎の森」は、ともに「育徳」の名のそばにある。
育徳は、五経の1つ「易経」の「山下出泉蒙 君子以果行育徳」を出典とする。それにしても古人は、いみじくも東と西に「育徳」の名を付けたものだ、
育徳園の心字池は『三四郎』の主人公・小川三四郎が里見美禰子と出会う場所として話題になり、その後「三四郎の池」と呼ばれるようになった。また小川三四郎は、みやこ町犀川久富出身の小宮豊隆がモデルと言われる。彼は旧制豊津中学、一高、東大と進み、漱石門下の俊英、文学者として名をなした。昭和32年には豊津高等学校の校歌を作詞、今も歌われ続けている。彼の功績を顕彰しょうと、昭和60年(1985)に、小宮が卒業した豊津中・高の錦陵同窓会を中心に顕彰会が作られ「小宮豊隆生誕百年記念事業」が進んだ。そして高校敷地内に「文学碑」が建立され、周辺に樹木を植えて公園化、生徒らの逍遥の場として「三四郎の森」が造られた。
こうして東に「池」ができ、西に「森」ができた。一文学作品に因んだ「想いの場」かもしれないが、どれだけ多くの人が、池を見て、森を歩いて、生きてきただろうか、感慨深いものがある。人は土地に育てられるというが、土地は人がつくるものだ。先人達の想いを受け継いで「育徳」の学びの「門」は、大きく開けておくことが大事だろう。幸いにも、東大には「赤門」があり、育徳館には「黒門」がある。