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小次郎と武蔵を追う 

 中野喜代「『小次郎』考―新資料をもとに」(『歴史研究』五〇八号)の随想文を頂いた。
 これは「旧福岡藩士大塚家に『岩流小次郎』に関する未公開の文書が伝えられている」の書き出しで始まり「今遙に往昔を稽るに、慶長十三年甲戌の夏六月廿九日とかや(略)互に計て彼舟島偏にして人家なきに便りて勝負を争へろ(略)岩流片輪の態の中折と見へしか、立ところに倒れ伏して息は絶て不蘇けり 嗚呼哀し」と記す『木刀之記』という小次郎と武蔵の巌流島の決闘に至る経過を記した文書のようだ。
 これまで「決闘」は「慶長十七年四月十三日」だったが「慶長十三年六月二十九日」となっている。その二人が交わした「高札」の史料で、小次郎の姓は「佐々木」ではなく「渡辺」となっている。

 「(略)然者一両日此方兵法伍被下由聞候 就其白は而仕相相望申候間、各御心懸之衆中御見物可被成者也 五月廿二日 日城無双岩流 渡辺小次郎」

 これに対し「武蔵合札」として武蔵からの返答の札がある。

 「札之面近比やさ敷望而候 去々年於大坂如札高札計は白刃我等木刀と立置候(略)明日廿四日牛ノ刻赤まかせき而可仕候(略)五月廿三日 天下一宮本武蔵守」

 さらに「日城無双廿四日未明赤間か関来 又札ヲ立也 昨日之合札見申候付而未明ヨリ参候 今日牛刻札心得申、我等は白はに定申候 木刀者命御かはい候とおかしく候(略)」の小次郎からの札が立ち、それに対する武蔵からの返し札が立つ。

 「(略)右如申我等者何時も木刀候 其方者すきのしらは可然候(略)さのみいのちいそがれ間敷候 今一時計而手なミの程見せ可申候者也 慶長拾三年六月廿九日」

 佐々木小次郎(~一六一二)は、豊前国副田庄(福岡県)と越前国宇坂庄(福井県)の生まれとあり、宮本武蔵(一五八二~一六四五)は『五輪書』に「生国播磨」(兵庫県)で『東作誌』に「美作国宮本村」(岡山県)とある。ともに二説の出生地。兵法は武蔵の「二天一流」と小次郎の「燕返し」が知られる。が、武蔵の「小倉碑文」に記された決闘相手の小次郎の名は「岩流」で「佐々木」姓が出てくるのは、武蔵没一三〇年後の文書『二天記』が初めてだ。小説や映画によく登場する二人だが、謎を秘めた武術家だ。歴史は脚色されると云われるが、埋もれた真実が、何時の日か、現れくるのを忘れてはなるまい。


by inakasanjin | 2020-04-10 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)