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宇都宮家と『小倉百人一首』

 豊前国の戦国大名・宇都宮鎮房(一五三六~八八)は、豊臣秀吉(一五三七~九八)の命により黒田長政(一五六八~一六二三)から中津城で謀殺され一族が滅ぼされた。原因の一つに秀吉から求められた「小倉色紙」の提出を拒んだからだとの説がある。小倉色紙とは藤原定家(一一六二~一二四一)筆といわれる「小倉百人一首」の色紙である。
 なぜ宇都宮家に「小倉色紙」があるのかは、時代を遡らなければならない。
 小倉色紙(=小倉山荘色紙和歌)は、鎌倉時代前期の武士・御家人であり歌人であった宇都宮五代当主・宇都宮頼綱(一一七八~一二五九)に起因する。彼は源頼朝の乳母に育てられ、同族である藤原定家とは、娘を嫡男に嫁がせるほど親交が深かった。頼綱は元久二年(一二〇五)に三代将軍・源実朝への謀反嫌疑をかけられるが、鎌倉政庁の追討からは逃れた。後、謀反の意がないことを陳述、出家し法名・蓮生を名乗った。京都嵯峨野の小倉山麓に庵を設けて隠遁した。彼は父親譲りの歌人として優れており、京都歌壇、鎌倉歌壇とともに日本三大歌壇といわれるほどの宇都宮歌壇の礎をそこで築いた。
 文暦二年(一二三五)頼綱は小倉山荘の襖装飾に貼る色紙を定家に依頼した。その要請を受けて、定家は天智天皇をはじめとする古今歌人の和歌一〇〇首を選んだとされる。
 藤原定家が「小倉山荘で編纂」し、色紙染筆の「小倉色紙」が「小倉百人一首」と呼ばれるようになった。色紙は、珍重がられ、価格も高騰、贋作も多く出回ったそうだ。
 宇都宮家には「小倉色紙」が伝わった。京都や下野、豊前などの地を治めた宇都宮一族に「色紙」は受け継がれていた。豊前に伝わった「色紙」が秀吉との軋轢を生むことになったと言われる。もし定家の「色紙」が一族を滅ぼしたというのであれば余りにも悲しい。
 ところで、蓮生(宇都宮頼綱)の詠んだ歌が残っている。

   さてもまた忍ばむとこそ思ひつれたが心よりおつる涙ぞ
   甲斐が嶺ははや雪白し神な月しぐれて越ゆるさやの中山
   いかにせむ身に七十路の過ぎにしを昨日も思へば今日も暮れぬる

 小倉百人一首は「歌がるた」として親しまれている。それに「宇都宮」の悲劇が隠されているとするなら郷土武将だけに身につまされる、が、なぜか「百人一首」が近しく思える。


by inakasanjin | 2020-03-27 09:00 | ふるさと京築 | Comments(0)