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良寛和尚の歌ものがたり

 良寛(1758~1831)の辞世句は「散る桜残る桜も散る桜」と「うらを見せおもてを見せて散るもみじ」の2句といわれ、多くの人に知られる。また歌も多く詠んだ。

 良寛は越後国出雲崎(現新潟県出雲崎町)の名主・神職の子として生まれた。18歳で突然出家。曹洞宗の修業を始め、道元禅師(1200~53)の教えに従い、妻子を持たず、寺も構えず、物も持たない清貧の思想を徹底した。難しい説法を行わず、質素な生活を示しながら庶民に解り易い仏法を説いた。特に「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と、子供を愛し、子供らとかくれんぼや手鞠をついたり、よく遊んだ。書をよくし、子らから「凧に字を書いて」には「天上大風」と揮毫した。作句もした。詠み遺した歌ものがたりを見る。


    この里に手毬つきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし

    月読みの光を待ちて帰りませ山路は栗のいがの多きに

    歌もよまむ手鞠もつかむ野にもいでむ心ひとつを定めかねつも

    不可思議の弥陀の誓ひのなかりせば何をこの世の思ひ出にせむ

    我ながら嬉しくもあるか弥陀仏のいますみ国に行くと思へば


 良寛70歳の折、長岡藩士の娘で30歳の貞心尼(1798~1872)が良寛の人柄を慕って訪ねて来た。良寛不在。で、手鞠に「師常に手まりをもて遊び給ふとききて奉るとて、これぞこの仏の道に遊びつつつきや尽きせぬ御法なるらむ」の歌を添えて帰った。

良寛は帰省して貞心尼の遺した和歌を見て返歌を贈った。


    つきてみよひふみよいむなやこゝのとをとをとおさめてまたはじまるを


 貞心尼編纂の歌集『はちすの露』には良寛と貞心のかけあい和歌が編まれている。


    君にかくあい見ることのうれしさもまだ覚めやらぬ夢かとぞ思ふ  貞心

    夢の世にかつまどろみて夢をまた語るも夢もそれがまにまに    良寛

    誘いて行かば行かめど人の見てあやしめ見らばいかにしてまし   良寛

    鳶はとび雀はすずめ鷺はさぎ烏はからす何かあやしき       貞心


 良寛の辞世歌は、道元の歌に拠る「形見とて何か残さん春は花夏ほととぎす秋はもみじ葉」と「良寛に辞世あるかと人問はば南無阿弥陀仏と言ふと答へよ」の2首が遺るという。


# by inakasanjin | 2021-05-07 09:00 | 文学つれづれ | Comments(0)

双葉山を見つけた高法山

 郷土史を紐解くと意外な話が眠っている。郷土誌「しいだ」第3号(平成7年刊)に池永敬「高法山の相撲人生」という小論があり、中に「角界入りと双葉山発見」の項目があった。大相撲の大横綱・双葉山誕生の秘話が綴られている。ひょい、と宝が出たようだ。


 福岡県京都郡椿市村(現行橋市)で生まれた森本喜代松(1898~1989)は、幼い頃から剛力、神社の奉納相撲などでは優勝の米俵を担いで帰っていた。大正2年(1913)15歳の時、大阪大角力協会に入門。四股名は「高法山」で3役入りした力士。小兵だが小気味よい相撲取りだったそうだ。相撲巡業で度々、九州に来た。昔から宇佐神宮の放生会相撲には参加していた。その折、彼は宇佐の海岸散策で、炭俵を軽々と掲げ持ち船に運ぶ少年を見つけていた。宇佐郡天津村(現宇佐市)の穐吉定次(1912~68)少年だった。

 高法山は少年に角界入りを勧めたが、首をタテに振らない。両親にも会って頼んだ。少年に手ほどきをした高法山は彼の相撲技に惚れ込んだ。このことを地元の警察署長にも伝えた。

 昭和2年(1927)に東京と大阪の角力協会が合併して大日本相撲協会(現日本相撲協会)が発足した。高法山は合併を機に角界引退。そして神職と行司の免状取得の修行に入った、後、高法山は、どうしても穐吉少年が忘れられず、何度も宇佐を訪ね、本人と両親へ角界入りを口説いた。ようやく「5年間だけなら」の返事。警察署長を通して立浪部屋に入門することになった。穐吉少年は15歳だった。

 四股名は「栴檀は双葉より芳し」から「双葉山」と命名された。彼は海運業で精神と肉体を鍛えられていた。角界に入門したものの目立つ力士ではなかった、が、足腰が強く土俵際の逆転相撲が多く「うっちゃり双葉」と呼ばれた。昭和7年幕内、11年関脇、12年大関、そして第35代横綱となって69連勝の大記録を樹立することになる。高法山が見つけた穐吉少年が大横綱になったのだ。


 高法山は、昭和4年、椎田町湊の加野キヨと結婚、湊に新居を構えた。彼は神職の資格もあり近隣の宮相撲などの行司を務めた。26年に時津風(=双葉山)一門が椎田巡業に来た。高法山は穐吉少年(双葉山)が名横綱として郷土の土俵に立つことに心高鳴った。 

 時津風親方は、土俵の上で高法山の手をがっちりと握り「おやじさん、お久しぶりです」と言った。感動の再会だった。晩年、高法山の〝相撲甚句〟が入院中の病院に響いた。


# by inakasanjin | 2021-04-30 09:00 | ふるさと京築 | Comments(0)

 南米ペルーの「空中都市」と呼ばれる世界遺産のマチュピチュ(標高2430㍍)は、生涯に1度は訪ねてみたい秘境の1つだ。山の麓にあるマチュピチュ村の人口約3千人。小さな山間の村は、年間、世界中から約200万人が押し寄せる観光地となっている。

 驚きだが、マチュピチュ村の礎は1人の日本人の知恵と工夫と努力で創られたという。


 大正6年(1917)に安達太良山のすそ野広がる福島県大玉村(人口約8500人)から〝契約移民〟として野内与吉(1895~1969)はペルーに渡った。農園で働いていたが契約内容と違うため、1年で辞め、アメリカ、ブラジル、ボリビア各国放浪の旅に出た。彼は英語、スペイン語、先住民のケチュア語などにも精通していて語学が堪能だった。

 5年後、彼はペルーに戻り、ペルー国鉄に勤務。電車の運転や線路拡大工事に携わりクスコ~マチュピチュ間の線路を完成させた。そんな生活で何事にも起用な彼は川から水を引き、畑作りを始め、水力発電を考案して村に電気を灯した。また村の事業推進で木を伐採中に温泉を発見。さらに故障した機械の修理などをして村人から信頼を得ていった。

 彼は、マチュピチュ定住を始めた昭和10年(1935)に線路のレールなどを利用した21の部屋を持つ3階建て木造建築「ホテル・ノウチ」を完成させた。そしてホテルを郵便局や交番、裁判所などに利用するよう村に無償提供。ホテルを中心に村が発展していった。

 またアンデス文明研究家などには、マチュピチュ遺跡を隅々まで知り尽くす語学豊富な彼が案内、同行した。昭和14年、人望篤い彼は村の最高行政官になった。後、村の川が氾濫して甚大な土砂災害に見舞われると、復旧のために村人と共に緊急支援を地方政府に要請した。すると昭和23年、地方政府は復興推進のため、野内与吉を正式にマチュピチュ初代村長に任命した。2年後、彼は村長を辞め、再度ペルー国鉄に従事、定年まで勤めた。


 昭和33年、三笠宮崇仁親王がマチュピチュ遺跡を見学した際、与吉の長女オルガ・ノウチが花束を贈呈した。それで彼の消息が親族に知れた。後、昭和43年、彼は52年ぶりに帰郷が叶った。日本に着くと「電気はついたか?」が第一声。半世紀の帰郷に〝今浦島〟と報道された。彼は、帰国を望む親族に、11人の子らが大事、とペルーに帰った翌年、73歳で逝った。平成27年(2015)マチュピチュ村と大玉村は友好都市締結を結んだ。


# by inakasanjin | 2021-04-23 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)

久女としづの女は教師妻

 大正から昭和にかけての女性俳句の黎明期、北部九州の小倉と行橋で2人の女流俳人が活躍した。杉田久女(1890~1946)と竹下しづの女(1887~1951)だ。

 久女(本名、久)は鹿児島県鹿児島市生まれ。官史の父と共に台湾などで生活をした。東京女子師範卒業後、小倉中(現小倉高)の美術教師の杉田宇内に嫁ぎ、小倉で暮らした。

 しづの女(本名、静廼)は福岡県行橋市生まれ。福岡女子師範卒業後、郷土小学校訓導を経て小倉師範の助教諭、後、農学校教師の水口伴蔵と結婚(養子縁組)し、福岡に移る。

 久女、しづの女共に夫は教師。お互い家庭生活の中、句作を始め『ホトトギス』に投句。


   鯛を料るに俎板せまき師走かな     久女   (大正6年1月号に初掲載)

   いつも此溝破れ鍋沈み田螺かな     しづの女 (大正9年6月号に初掲載)


 久女の出世作は『ホトトギス』の「雑詠」だったが、しづの女は「巻頭」を飾った。


   花衣ぬぐやまつはる紐いろ〱      久女   (大正9年6月号「雑詠」)

   短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎    しづの女 (大正9年8月号「巻頭」)


 久女もしづの女も同じ時期、何故か、次の句などを詠んだ後、句作を中断する。


   カルタ歓声が子を守るわれの頭を撲って しづの女 (大正10年)

   足袋つぐやノラともならず教師妻    久女   (大正11年)


 2人は『ホトトギス』で競作。主宰高浜虚子との贈答句が久女、しづの女共にある。


      初夢にまにあひにける菊枕   虚子

         愛蔵す東雛の詩あり菊枕     久女   


      女手のをゝしき名なり矢筈草  虚子

         ちひさなる花雄々しけれ矢筈草  しづの女


 2人は俳誌を発刊している。久女は『花衣』(昭和7年)を創刊。しづの女は高等学校俳句連盟を結成し中村草田男と指導する機関紙『成層圏』(昭和12年)を刊行した。

 近年、2人を「万葉のしづの女」「王朝の久女」との評価がある。2人の辞世を見る。


   無憂華の木陰はいづこ仏生会      久女   (昭和21年)

   ペンが生む字句が悲しと蛾が挑む    しづの女 (昭和26年)


# by inakasanjin | 2021-04-16 09:00 | 文学つれづれ | Comments(0)

 岡山のノートルダム清心学園理事長だった渡辺和子さん(1927~2016)に「学歴や職歴よりもたいせつなのは、苦歴」という言葉があるのを知った。『置かれた場所で咲きなさい』の著者ならではの言葉だ。生きてきた「苦歴」は、まさに人生の証だろう。

 あるブロガーが「苦歴」について若い障害のある女性から聴いたとして「みなさんは、人生、学歴だ、職歴だって、おっしゃいますが、もう、私なんか、学でも職でもなく、苦歴なんですよ。だから私の人生で書くのは履歴書でなくて苦歴書」の話をブログにアップしていた。渡辺さんしかり、障害の女性しかり「苦」の中から「生」を学んできたようだ。

 日本の社会は概ね学歴と職歴は連動するシステムになっているようだが、結果オーライであるならば、現在は、学、職、問わず、物事の問題が解決、解消すれば「歴」は必要ないようだ。要は、人のやる気であり、実践、実行が大事な時代となっている。

 ソニーの盛田昭夫さんは「学歴無用社会」を説いた。自己の才能を信じて情熱を注ぐことや夢を実現するまでの苦労の量が心の広さをあらわすなど、自ら切り開いてきた日々の「苦歴」は、全ての人が刻む「人歴」と言ってもいいだろう、貴重なものだ。

 その昔『大学は出たけれど』という映画が小津安二郎監督(1929年)と野村芳太郎監督(1955年)によって製作されて評判をとった。最高学府を出たが職がない生活を描いたものだった。啄木の「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」ほどはないにしても、皆が貧しかった。当時の人は、その「貧」を乗り越える懸命の力を振り絞った。だからこそ「学」「職」関係なく「苦歴」が輝いて見えるのだろう。

 今、学歴詐称、学歴貴族、学歴難民などの言葉を散見する、情けないかな、今の世の鏡に映る「学歴」は哀しい。また現役で仕事をしていた時代、それぞれ職責があった。その職に拘って生きてきた人の末路も悲しい。齢になり組織から外れれば「唯の人」になる。組織にいても自らの人生を見越し、もともと与えられた「職歴」は仮の名として自覚、肩ひじ張らずに「唯の人」で生きてきた人であれば落胆もなければ悲哀もないだろう、だから「職」が消えたからと言って何も怖がることもなければ卑屈になることもない。

 所詮「学歴」も「職歴」も究極、借り物で「苦歴」が随一、真の証になりそうだ。


# by inakasanjin | 2021-04-09 09:00 | 田舎日記 | Comments(0)