人気ブログランキング | 話題のタグを見る

 最後の瞽女(ごぜ)で人間国宝とも呼ばれる小林ハルさん(1900~2005)は明治、大正、昭和、平成を生き抜いて105歳で逝った。ハルさんの足跡を辿って見る。 


 ハルさんは、新潟県三条市の庄屋格農家の4人兄妹の末っ子に生まれた。3歳で失明。5歳で瞽女修行に入るのだが、母から「おらはいつまでも生きられねエ『なんでも覚えねば』ならん」と、礼儀作法から編み物など徹底して教えられた。母を憎み、恨んだ。

 また目が見えないからと家の奥で暮らし、人の前に出ることはなかった。そして生きてゆくため、針灸、按摩、琴、三味線の職業を探すが「瞽女」の道を選ばされた。最初の師匠からは「すぐ棒を持ってはたかれ」るなど、激しい仕打ちと嫉妬に耐え続けた。そんな中、瞽女独自の発声法の「寒声」訓練は厳しかった。薄着で素足に草履をはき、寒い川原に立って声を出す稽古を続けた。喉から血が出るほどの修行。やがて村の鎮守神で奉納するまでになった。陰湿な師匠から離れ、実家に戻った。


 後、彼女は長岡瞽女の師匠の前で「瞽女唄」を披露すると「赤い半衿のついた襦袢」を贈られた。ハルの声は、マイクなしでもリズムを伴い、心地よく耳に届いた。美声ではないが、透きとおり、長年、鍛えた者だけがだせる見事な節回しで「低く太い、響き渡る声を持って一直線に鼓膜を突き破ってくる」といわれた。

 またハルさんは、母から「目のみえないものは一生他人の世話になる。口答えせず、自分の意見は言わない」ように「運命を甘受する態度」を植え込まれ「悪い人と歩けば修行」の気持ちだった。だから「よほどついてない人」だと云われるほどに騙されもした。


 昭和48年(1973)福祉施設入所まで瞽女として生きた。後、新潟、山形、福島などを巡る「瞽女唄」の調査、研究が進んで昭和53年には「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」としてハルさんらは保持者に認定された。その後、各種メディアに登場、脚光を浴びたが「一度聞いたら一度で覚えろ、私どもは、これを字に書かないで文句から節まで一緒に覚えていた」と修行の重さを伝えた。

 やはり戒名「無量院春芳滋聲大姉」に刻まれるように「春の芳せ、百花乱れる中、ひときわ美しい香りを四方に放って歩き、人一倍、苦を背負いながらも慈悲の心を、野山に響き渡る澄んだ聲で想いを伝えた人」だったようだ。

 今、1世紀を生きたハルさんは、胎内市の「やすらぎの家」そばの共同墓地に眠る。


# by inakasanjin | 2022-08-12 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)

届かなかった手紙

 歴史に「もし」はないが、ハンガリー生まれでアメリカのユダヤ系物理学者レオ・シラード(1898~1964)が、もし、いなかったら「原子爆弾は生まれていなかった」かも知れない。

 1930年代、彼は、ドイツで台頭してきたナチスに強い危機感を持っていた。そのドイツに対抗する核開発を促す「書簡」を、ドイツ生まれのアルベルト・アインシュタイン(1897~1955)に、米国のフランクリン・ルーズベルト大統領(1882~1945)へ送るように依頼。それが「原子爆弾開発のきっかけになる手紙」になった。

 その手紙には「(略)ウラン元素が近い将来、新しい重要なエネルギー源となるかもしれない。(略)極めて強力な新型の爆弾の製造につながるかも知れません。船で運ばれ港で爆発すれば、この種の爆弾ひとつで、港全体ならびにその周囲の領域を優に破壊するでしょう。(略)」と記されていた。


 後、米国で原爆開発の「マンハッタン計画」がなされ、科学者・技術者3千人を含む12万人を超える関係者が携わり、2兆円の経費をかけて原爆がつくられたとされる。原爆は「戦争を終わらせるための目的」とされ、当時、米軍は日本各地の都市襲撃を続けていたが、広島県の呉では空襲はあるが、広島にはない、などと「原爆の効果」を見極めるため、投下予定地には空襲なしの計算がなされての襲撃だったようだ。そしてヒロシマ、ナガサキに原爆が投下された。

 ところが、原爆投下の前、米国のハリー・S・トルーマン大統領に「無警告使用に反対する70名の科学者」署名を集め「日本に警告せずに投下し、無差別に殺戮することに反対する」嘆願書づくりをシラードが中心になってすすめ、届けたが、届かなかった。シラードは「正義感強く孤高を厭わない人で、世間知らずと不誠実との選択を迫られたら世間知らずを採る人物」とされた。後、彼に「原爆を作らせようとして成功、使わせまいとして失敗した男」のレッテルが張られることになった。


 シラードは、自らの戒めとして「十戒」を纏めている。1、自分が何をしようとしているかを理解する。1、自らの行いを価値あるものにする。1、創造できないものを破壊しない。1、もてあますものを欲しがらない。1、子どもに限りない愛情をもつ。1、見知らぬ人々の下へ歩みだす。1、声がかかった時はいつでも旅立てる。などを遺している。

 もし、シラードらの「手紙」が届いていたならば、と悔やまれる。歴史は戻らない。


# by inakasanjin | 2022-08-05 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)

九州の文化人を上野邸に

 人生の大先輩から「上野晴子さんの『キジバトの記』をご存知ですか」のメールが届いた。そうか、話すことはなかったが、あの時の静かな奥さまだな、が蘇った。昭和40年代(1965~)のことだ。福岡県鞍手町の「上野邸」を訪ねた時を思い起こしてみよう。


 当時、成田闘争に関わった運動家・前田俊彦さん(1909~92)が豊津町(現みやこ町)に帰郷の度「瓢饅亭(哲学者の谷川徹三さんがヒューマニティーをもじって命名)」で「前田のおやじさん」によく会い、貴重で大事な話を聞くことができた。

 ある日、おやじさんは「豊前市の市民会館に行こう」と言われた。そこでは「豊前火力絶対阻止・環境権訴訟をすすめる会」の中津市に住むノンフィクション作家・松下竜一さん(1937~2004)と会うためだった。時間になっても松下さんは来なかった。で、「仕方ない、帰ろう」と引き返した。その後、松下さんは『草の根通信』の刊行を始め、30年以上、亡くなるまで続けた。


 松下さんとの「豊前のすれ違い」から日を置かず、今度は「鞍手に行こう」といい、鉱員住宅(「筑豊文庫」)に住む記録作家・上野英信さん(1923~87)を訪ねた。車中では「九州の文化人を一堂に集めようと思う」など楽しい〝夢物語〟を聴きながら鞍手町の「上野邸」に向かった。成田闘争の話も聞くことができた。


 上野邸に着くと、ノンフィクション作家・森崎和江さん(1927~)、記録写真家・林えいだいさん(1933~2017)、作家の後藤みな子さん(1936~)など錚々たるメンバーが揃っていた。前田のおやじさんは〝御大〟のようだった。まさに猛者の集まりと言っていい。喧々諤々、議論百出の貴重な時間が過ぎた。


 そんな傑出人の喋りの中、部屋の奥に広がるおびただしい画には驚いた。訊くと「これは炭鉱の絵で山本作兵衛さんという坑夫が描いた。近く画集を刊行するため、最終校正をしています」とのことだった。

 今、考えれば、日本で初めてユネスコ記憶遺産の登録を受けた「炭鉱画」だった。山本作兵衛さん(1892~1984)は、飯塚市に生まれ7歳の頃から兄とともに父に連れられて炭鉱(ヤマ)に入った。彼は、60代半ばから「子や孫にヤマの生活、人情を残したい」と絵筆を取り、墨や水彩で描いた作品は千点を越す。昭和48年『筑豊炭坑絵巻』(葦書房)が刊行された。


 偶然にしても、人には、やはり出会う〝時〟があるのだな、と思った。


# by inakasanjin | 2022-07-29 09:00 | 田舎日記 | Comments(0)

 2021年、国立、公立、私立の各大学が入試センターと協力、同一期日に同一試験問題で共同実施する「大学入学共通テスト」がスタートした。学びで「試験」は大事なものだ。


 試験と言えば、中国の「科挙」は、世界一難しいとされ、隋(587)から清(1905)まで、長く続いた官史任用試験。多民族国家の言語思想統一に大きな成果を上げた。

 科挙の試験は、童試→郷試→会試→殿試の段階があり、後ろ3試験の1番は「解元」「会元」「状元」といい、3試験全てトップ合格は「三元」という。麻雀役「大三元」の由来とされる。科挙には商人、女性、前科者の受験は許されなかった。身分の差別や年齢制限はなく「国籍」もなかったようだ。試験は四書五経を諳んじ、詩歌に優れた人物を30余名合格させるもので、合格率は3000倍とされた。並の学びでは、まず合格は無理なようだ。


 この「科挙」に日本人の合格者が歴史上に1人だけ存在している。


    天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも


 この『小倉百人一首』に採られた歌を詠んだ阿倍仲麻呂(698~770)だ。

 仲麻呂は、大和国に生まれた。奈良時代の遣唐留学生で、養老元年(717)に19歳で吉備真備らと入唐し長安に留学した。玄宗皇帝に仕え、重用され「朝衡(ちょうこう)」と名乗った。朝廷では官職を重ね、李白や王維など唐詩人との交流も深めた。


 彼は唐の高僧を日本に招聘する使命もあったようで、鑑真和上(688~763)へ日本渡航を進め、和上が渡日を決意するが、何度も渡航に失敗。天平勝宝5年(753)の6度目の挑戦で日本の地を踏むことができた。その時、仲麻呂も望郷の念断ち難く30年を超える唐生活に別れを告げて帰国を決意。唐の送別会で詠んだのが「天の原・・・」と言われている。

 しかし、日本へ向けて出帆した4隻の内、仲麻呂乗船の船が暴風に遭って漂流。幸いにも安南に漂着した後、彼は、日本に帰ることなく、再び唐に戻って官途に就き、唐で客死した。

 一方、鑑真は東大寺に5年、唐招提寺に5年過ごし、天皇や多くの人々に授戒を行い、日本で没した。天平宝字7年(763)鑑真の弟子・忍基によって造られた唐招提寺の国宝「鑑真和上坐像」は日本最古の肖像彫刻。


 仲麻呂と鑑真は「学び」と「教え」の尊厳を伝えて異国の地に眠った。

 2人を語ることは、悠久の歴史を想い、日本と中国の心を語ることでもあろう。


# by inakasanjin | 2022-07-22 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)

 日本のシンドラーと云えば、1940年(昭和15)リトアニア領事館でナチス・ドイツ迫害からの難民6千人のユダヤ人に外務省訓令に反してビザを発給した外交官・杉浦千畝(1900~86)が広く知られているが、もう1人のシンドラーと言っていい陸軍軍人・樋口季一郎中将(1888~1970)を知る人は少ない。


 樋口は兵庫県淡路島出身。1919年(大正8)陸軍士官学校卒業後、ロシア語堪能でウラジオストクに赴任、ロシア方面を転々。25年ハルビンに移った。

 38年、ナチスの迫害から逃れるユダヤ人10数名がソ満国境のシベリア鉄道オトポール駅で避難していた。彼らが亡命先まで行くには満州国を通らなければならない。足止めになっているユダヤ人の惨状を見かねた樋口は、部下と一緒に衣類や燃料の配給、救護者の治療などにあたり、満州国へ「人道上の問題」として難民を受け入れ、早期の事態改善を強く働きかけた。毎日の難民殺到に「ヒグチ・ルート」を独断で設立、救出の発券手配に忙殺された。

 当時の松岡洋右満鉄総裁は、満洲里からハルビンまでの特別列車を無償で手配、下村信貞外交官の奔走で満州国外交部は無条件の滞在査証を発給。各部署で難民救済への協力がつながった。この救済は「オトポール事件」と云われ、ユダヤ系難民2万人余の命が助かったという。

 これにドイツ外務省は抗議書を日本外務省に提出。樋口は関東司令部に出頭し東条英機に面会「参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで、弱い者いじめすることを正しいと思われますか?」と問うた。樋口の言い分に懲罰を科さず、ドイツ抗議は不問に付された。

 この事件は難民数の多さなどが疑問視され、表に出ることはなかった。国民も知らなかった。


 また樋口は北海道を救った男としての実績も残す。ポツダム宣言を受諾し玉音放送後、ソ連通の樋口は「ソ連軍が銃を置かないことを予期」していた。案の定、8月18日、千島列島・占守島にソ連赤軍の上陸部隊が殺到。樋口は断固たる反撃でソ連軍抑止のため「大本営の命令」に従わず勇戦し撃退。この戦は日本が分断国家にされる窮地を救った勝利と云っても過言ではない。


 樋口は戦後、82歳で亡くなるまで徹底隠遁。イスラエルには功績のあった人や傑出した人物の名を記す「ゴールデン・ブック」がある。それにアインシュタインやモーゼなどと「偉大なる人道主義者 ゼネラル樋口」が記されていると聞く。


# by inakasanjin | 2022-07-15 09:00 | 歴史秘話 | Comments(0)