2023年 05月 26日
笑顔を忘れずone to One
TV番組「中居正広のキンスマ」に岡山ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さん(88)が出演していた。大ベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』に救われた人々の事例紹介などに併せて彼女の歩んだ道がドラマ仕立てになっていた。
彼女は、昭和2年(1927)北海道旭川で生まれた。父の陸軍中将・渡辺錠太郎が53歳の時で四人兄妹の末っ子だった。父には「とても可愛がられた」彼女が9歳の時、昭和11年の「2・26事件」に遭遇。父の居間に隠れていて青年将校らの襲撃で警視総監だった父が銃殺される姿を目の前で見た。この世に生まれてきたのは「父が最後の姿を見なさい、ということだったのでしょうね」と渡辺さん。18歳で洗礼を受け、29歳で修道女会に入会。ボストンカレッジ大学院で博士号を取得。
36歳でノートルダム清心女子大学学長に就任。その後、うつ病に罹り克服。57歳の時、ノーベル平和賞を受けたマザー・テレサ来日では通訳を務めた。
幼い頃の父の死、うつ病になるなどの日々の苦難を乗り越え「ノートルダム清心と聖心の違い」を、聖心はイエスキリスト、清心はマリアさまを崇拝すること、と生徒らに伝えていた。彼女の文で
「……1つの呪文one to Oneを唱えることがあります。最初のoneは小文字で「私」次のOneは大文字で「神」を表すのです。
私の相手は神さま。悔しいことを言われたり、されたりしても「神と私」の関係を忘れずにいれば、ほかの小さなことは、自ずから片付いてゆく……『許し』にもつながります……笑顔を忘れず、すべてをご存知のOneを信頼し、小さなoneとしての自分と仲良く暮して……」
が目に留まった。いろんな言葉を紡ぎだせる方だ。
この世に「雑用」という用はありません。
私たちが用を雑にした時に、雑用が生まれます。
「ていねいに生きる」とは、自分に与えられた試練さえも両手でいただくこと。
渡辺さんの穏やかな表情は心を和ませる。中居さんらの質問の中で「お世話をする看護の看という字は手と目と書くでしょう」と、笑顔で、さりげなく答えて「看護」の本質をピタリ指摘する。彼女の、年輪というよりも健康な心の若さを思った。
2023年 05月 19日
「君が代」と「蛍の光」
桜の蕾の芽吹く頃、卒業や退職での別れがあり、満開にむかうと入学や就職の新しい出会いがある。春は、別れと出会いが間を置かずしてやって来る。
学校では2つのメロディーが「時」と「心」を刻んで思い出を作る。誰もが通った道であり、通る道でもある。日本人であれば「君が代」と「蛍の光」は何時知れずともなく、からだに沁みる音曲になっているようだ。2曲のルーツを探ってみる。
「君が代」は平安時代(905)に編纂された『古今和歌集』の和歌の一つ。
君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで
この長寿と幸福を謳う祝い歌が「国歌」になるまでの経過をみる。明治2年(1869)イギリス人ウィリアム・フェントンが薩摩藩軍楽隊に国歌を作るべき、との進言をし薩摩琵琶から歌詞を採りフェントン自身が作曲したが、洋曲風で日本人には馴染まなかった。その後、明治13年、国民に広く親しまれていた「君が代」の詞に京都生まれの雅楽師・奥好義(おくよしいさ1857~1933)が旋律をつけ、大阪の宮内省伶人(楽人)林廣守(はやしひろもり1831~96)が作曲、それをドイツ人フランツ・エッケルト(1852~1916)が管弦楽用に編曲して完成した。
明治26年、文部省が「楽譜」を官報に告示。明治36年にはドイツの「世界国歌コンクール」で「君が代」は1位受賞など、事実上、国歌として用いられていた。
そして平成11年(1999)「国旗及び国歌に関する法律」で国歌に制定された。
また「蛍の光」は、人生一区切りに歌う、別れの曲として誰もが納得するだろう。
蛍の光 窓の雪 書読む月日 重ねつゝ 何時しか年も
すぎの戸を 開けてぞ今朝は 別れ行く
この日本唱歌の原曲は、イギリスのスコットランド民謡「オールド・ラング・サイン」で、福島出身の国学者であり唱歌作詞者・稲垣千頴(いながきちかい、1845~1913)の作詞により明治14年「小学校唱歌集」に載った。卒業式の定番ソング「仰げば尊し わが師の恩 教えの庭にも はや いくとせ おもえば いと疾しこのとし月 いまこそ 別れめ いざさらば」が歌われなくなるなか「蛍雪の功」を説く歌は残る。やはり、2つの曲は、日本人の「核=芯」音曲なのだろう。
2023年 05月 12日
「日の丸」を考えた
書店に白地に赤丸装丁の『日の丸』(プレジデント社刊)があった。帯には「国旗国家法施行15周年」とある。えっ、15年?と思った。日の丸が正式に国旗になったのは平成11年(1999)の「国旗及び国歌に関する法律」が公布されて以降だから、まだ日は浅いのだ。祝日になると各家々には日の丸の旗が掲げられていた。今、その景色が珍しい時代になっている。日の丸、を追い、考えた。
飛鳥時代、国号を日ノ本、日本と命名したのは「日が昇る」太陽と国の統治を意識してのようで、旗もまた太陽を象り、延歴16年(797)の『続日本紀』には、天武天皇の大宝元年(701)朝賀の儀で正月元旦の飾りに「日像」の旗を掲げる記述があり、これが「日の丸」の原型で最も古いと言われる。
また平安時代まで朝廷の錦の御旗は赤地に金の日輪、銀の月輪を描く、日輪は「赤地に金丸」で天下統一の象徴。そこへ登場した平氏が官軍を名乗り「赤地金丸」を使用、それに「白地赤丸」で源氏が対抗した。平氏滅亡後は「白地赤丸」が天下一の証として受け継がれてきたようだ。そして室町時代の朱印船に日の丸の旗、江戸期の絵巻物などに白地に赤丸の扇、屏風の船団にも日の丸の幟が立つ。
江戸末期、黒船来航以降、外国船との区別のため、幕府は、安政元年(1854)薩摩藩主島津斉彬の「白帆に朱の丸」の進言を受け、水戸藩主徳川斉昭らが賛同して日本の船印は日の丸と定めた。その後、明治3年(1870)に商船規則(太政官布告)で日本船の目印として「日の丸」を採用、と初めて法的な裏づけができた。
『日の丸』の最初のページには、1860年代の兵庫県神戸の海岸で日の丸の旗がはためく写真を掲載。その他、明治33年(1900)頃の沖縄、尖閣諸島魚釣島のカツオ節工場前に翻る旗の下での記念撮影、日の丸弁当をたべる子ども、背中に日の丸を背負った特攻隊員の姿、東京五輪開会式でメインポールに揚がる旗、エベレスト初登頂で立つ日の丸など時代を追っての50景が紹介されている。
国旗とは日章旗と呼ばれ、日の丸の旗と呼ばれる。国民が慣れ親しんだ日本の旗を参考にしたバングラディシュ国旗は「緑地に赤丸」またパラオ国旗は「青地に黄丸」だ。国民と風土に合う「白地に赤丸」は「日いづる国」日本にふさわしい旗だ。
2023年 05月 05日
いい「加減」な生き方
春は、別れと出会いが同居している。仕事場を去る者があれば、来る者がいる。この季節になると「散る桜 残る桜も 散る桜」を伝える機会が多くなる。ありがとう、残る者も、いずれ、去っていきます、と呟く。そして、散った後、葉桜の繁る景色が人々に安らぎを与えるように、これまでの、伝えたい心よ、伝わって、と願う日々に変わる。
定年退職後、人に遇うと、必ず「元気ですか、毎日、どうしていますか?」の声がかかった。返答は、いつも「いい加減に過ごしています」と、答えることにしている。すると、相手は、笑って、一瞬、怪訝な顔をする、いい加減、という言葉に反応するのだ。ここ数年の、日常である。いい加減、はいい言葉ではない、かもしれない、が「いい『加減』にする」ことは大事なことである。極端だが、加減が判らないからこそ命まで奪ってしまう事件が頻発する、加減を知り、加減を計ることで、人間の間合いがわかるようになる。間合いがわかれば、人と人との付き合い方も楽になっていく、のではなかろうか。
だから、遮二無二生きる、精一杯生きる、のではなく、己の加減を知って、いい「加減」に生きる、そうすれば気負いもなく、無理もなく、穏やかな日々の生活が生まれてくる、そこで「加減」が、自分の感覚でしか判らないと気づく、そうすると、コダワリが消え、ウツが無くなる?
人の生き方のなかで、助けて欲しい時、人を助けることで救われる事がある。妙なもので、逆も真なのである。また、裏表のある生き方は良くないが、まま、そんな人に出くわすことがある、しかし、所詮、人間「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」と思えば、それもいい。
いい「加減」な生き方は、ある面、怠惰、と映るかも知れない、が、怠惰な馬鹿さ加減が、本当の意味で、生きることの極意?になるのでは、と思う。
人間、馬鹿になれることが、許すことであり、許されることなのだ。
江戸時代の僧侶で歌人の良寛は「子供の純真な心こそ仏の心」と、子供を愛し、子供と遊んで、多くの歌を残した。桜も、もみぢも、良寛辞世の歌。そういえば、春の桜、秋の紅葉は、ほろ酔い加減、が、似合う季節でもある。
2023年 04月 28日
生きてゆく心をさがす
生きてゆく中、先人の詩や句、歌などの言葉にやすらぎを見つけ、想いを重ねて暮らしていく。喜怒哀楽の悲喜こもごも、言葉に傷つきもするが、救いもあるようだ。言葉を追う。
詩人の岩崎航(1976~/宮城県仙台市)は、進行性筋ジストロフィーを患い24時間ベッドで過ごす。彼の初詩集『点滴ポール 生き抜くという旗印』に「貧しい発想」という詩がある。苦しみ、悲しみを超えた視点からの言葉に納得する。言葉の深さを想う。
管をつけてまで/寝たきりになってまで//そこまでして生きていても/
しかたがないだろう?//という貧しい発想を押し付けるのは/
やめてくれないか//管をつけると/寝たきりになると/
生きているのがすまないような/世の中こそが//重い病に罹っているー「貧しい発想」
仏教讃歌「生きる」があるのを知った。童謡・童話・詩人そして浄念寺住職である中村静村(1905~73/奈良県橿原市)の初詩集『そよ風のなかの念佛』に納まる詩「生きる」にメロディーがついたものだ。女声合唱団の厳かな歌声は心に沁みてくる。
生かされて 生きてきた/生かされて 生きている/
生かされて/生きていこうと/手をあわす/南無阿弥陀仏//
このままの/わがいのち/このままの/わがこころ/
このままに/たのみまいらせ/ひたすらに/生きなん今日も//
あなかしこ/みほとけと/あなかしこ/このわれと/
結ばるる/このとうとさに/涙ぐむ/いのちの不思議 ―「生きる」
俳人も歌人も生きていることの証として言葉を紡ぎだす。遺された言葉は永遠。
生きていることに合掌柏餅 村越化石
死んだ夢は生きた夢也花芒 正岡子規
あかあかと一本の道となりたりたまきはる我が命なりけり 斎藤茂吉
はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る 石川啄木
日々の暮らしで、楽より苦が「生きる」思いを強くする。生きる苦しみがあってこそ人は往生できるのかもしれない。所詮〝苦界浄土〟で、生きる心をさがし続けるのであろう。