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 作家の高橋克彦さん(1947~)からの私信に「末松謙澄は私の好きな人間です。本当はミステリーではなく、きちんとした形で紹介したいと考えておりましたが、自由にモノを言わせられた分だけ、末松謙澄の暖かさとユニークさが出せたのではないか、と近頃では納得しています」と記されている。
 これは、彼が『写楽殺人事件』(1983年/29回江戸川乱歩賞受賞)で作家デビュー後、第1作の歴史ミステリー『倫敦暗殺塔』(1985年)刊行後の交流で届いた手紙の一部。このミステリーは、明治18年(1885)に日本ブームで沸くロンドン博覧会で日本軍人が殺害される事件があり、井上馨や山縣有朋、伊藤博文ら明治の元勲と共に郷土の偉人・末松謙澄(1855~1920)が実名で登場している。

 
 ――山縣は井上に訊ねた。「末松じゃ。公使館ならヤツがおる」「オレも同じことを考えておった」後の内務大臣にして文学者、末松謙澄である。この当時、31歳。明治11年より英国公使館一等書記官を任ぜられロンドンに駐在していた。足掛け9年にも及ぶ駐英期間の中で英文「ジンギスカン伝」「源氏物語」の2箸を発表し、文学の紹介にも力を注いでいる。
 末松は偶然にも伊藤、山縣の2人と密接な関係があった。(略)西南の役に際し、山縣の幕僚として腕を振るい、勲章までもらっている。特に伊藤はこの末松の気性を愛し、後年、ロンドンから戻った彼と自分の娘生子とを一緒にさせている。(略)
 「なるほど、末松か。あの男は良い。確かケンブリッジ大学にも通っているのではなかったか? あの男が今度の1件を引き受ければ、向うにも文句はなかろう。公式の捜査は末松に任せることにしよう」(略)
 末松は快く承諾した。井上の喜びは大きかった。それが珍しく横浜までの見送りに繋がっていた。末松の潔さに打たれたのである。
 「君に日本の将来を預けるのはこれで2度目だな」井上は昔を思いだして笑顔を見せた。「君のお陰で日本はなんとか時間を稼ぎ、こうして世界から脅威を持たれるほどに成長したが・・・」――

 
 この作品は、明治政府がロンドンの「日本人村」を舞台に画策する密謀を読み解き、犯人探しも2転、3転、最後はどんでん返しの展開。やはり登場人物が「実名」のため、意外な人物像の想いも加わるドラマに仕上がっている。NHK大河ドラマ『炎立つ』『北条時宗』などの著作を持つ作家の初期作品に「末松謙澄」が描かれている。謙澄はドラマ持つ人物。

# by inakasanjin | 2024-01-19 09:00 | 文学つれづれ | Comments(0)


 令和五年(2023)の夏、福岡県行橋市に洒落た特産品が誕生した。地域おこしを奨める組織の協働作品。今風の郷土を伝える産品として広がるだろう。作品誕生の「しおり」を記録として遺したい旨を伝え、再録の了承を戴いた。郷土づくりの動きをみる。
 
 
               行橋のピンバッチ
 新しい時代の地域発信の1つとして「地域ピンバッチ」が造られています。このほど「小倉織」を組み込んだ「行橋ピンバッチ」ができました。
 小倉織は、1600年代初め、豊前国の小倉藩(現北九州周辺地域)で生産されていました。細川忠興が小倉藩主だった時代から存在しており、徳川家康が鷹狩りの際に着用した「小倉織の羽織」伝承も残っています。
 そんな小倉織の糸は、幕末、行橋市(旧大橋村)から北九州市(若松、黒崎など)にかけて1万戸以上の家々で紡がれていたといわれ「小倉藩の特産」として全国に愛用者が多くいました。しかし、大正時代末期、一度、途絶えましたが、小倉織の美しさに気付いた人々の手によって復興されました。
 小倉織は、伝統的な技術やデザインを継承しながら時代にあったアクセサリーなどが造られています。このピンバッチに使用されている小倉織は、1628年頃、小倉藩主・細川忠利による日本最古のワイン醸造に使われた「ガラミ」と同じ山葡萄で染められた高貴な「紫糸」で織り上げられています。
 歴史遺産である郷土に伝わる技術「小倉織」と自然の艶やかな色彩を生む「ガラミ」とのコラボ作品が現代に蘇りました。行橋ピンバッチは「行橋市域」を象ったユニークで洒落た地域バッチとして暮らしの中に取り入れていただきたいものです。
       監修・一社)豊前国小笠原協会/協力・一社)豊前小倉織研究会
       製造・株式会社 ITOHEN/販売・九州製茶株式会社

 
 行橋ピンバッチは、行橋市観光協会のJR行橋駅構内の行橋観光物産コーナー「ゆくはしマルシェ」で販売されている。行橋人の郷土バッチ「おもしれぇや、ねぇか、ちゃ」。
# by inakasanjin | 2024-01-12 09:00 | ふるさと京築 | Comments(0)


 人の繋がり、地の繋がりは文化を身近なものにするようだ。豊前国を発祥とする華道の「無雙眞古流」は、江戸時代から京都の銀閣寺(慈照寺)に伝わって来た。

 慈照寺の花方から「花は、室町八代将軍・足利義政(1436~90)を流祖とし、福岡県みやこ町勝山の木村家が、代々花道の理と術を正確に伝える宗家だった」といい「ぜひ、木村家の墓参」をとの話。そこで一般社団法人豊前国小笠原協会(川上義光代表)は、これまで知られることのなかった「埋もれ隠れた貴重な遺産」の顕彰をみやこ町に働きかけた。

 平成24年(2012)春。宝暦14年(1764)に足利18代千葉官蔵から木村徳右衛門が名跡を受け、11代まで続いた木村家「花樂堂」の歴代墓に銀閣寺関係者の参拝が実現した。後、花方は「花は流派であって流派でない、家元制度がなじまない」などの伝承経過やシンプルな様式の花の実演を披露した。花関係者は、この花は北九州の「神理教」に関りがあるのでは、との声が、時折、話題に上った。

 令和5年(2023)春、墓参から10年を経て協会関係者は「神理教」を訪ねて驚いた。徳力神宮・神理教(巫部祐彦管長/北九州市小倉南区徳力)の神歴は、日本古代から存在する教えを大切にする古代神道の中でも純神道といわれる。その歴史に足利尊氏(1305~58)が登場。尊氏は南北朝時代、京都で敗戦、九州に敗走。田川郡福智町の禅寺・興国寺境内の巨木下の隠れ穴に潜んでいた。武運吉凶を占う蕾つく桜の木を地に挿し「今宵一夜に咲かば咲け咲かずば咲くな墨染の桜かな」と詠んだ。翌朝、花が見事に咲いた。勝利を信じ、東上し勝利。室町幕府樹立(1338年)と伝わる。

 興国寺の隠れ穴時代、古神道・神理教と地の利もあり、深い交流があったのではと推察できる。神理教の古書に「尊氏に献花」、「東上へ同行」などの記録も残る。すると室町幕府初期から神理教の姿もあるようで、日本文化の茶や花、連歌などが「室町」からという礎を築いたのは「神理教」も関わるのではの思いを持っても不思議ではないだろう。

 それは小倉藩の小笠原家菩提寺の広寿山福聚寺境内墓地をはじめ、「躰と添」の少ない草木を使い、天人地三才の思想を基につり合いをとる無雙眞古流の碑が小倉城周辺に散在するのも「尊氏献上花」が「無雙眞古流」の源流だったかもしれない、など「神理教」をめぐることで国のカタチを含め、意外な「真」が顕れてくるかもしれない。花を歩く。

# by inakasanjin | 2024-01-05 09:00 | ふるさと京築 | Comments(0)


 2017年、秋、作家の角田光代の現代語訳『源氏物語』が刊行され「角田源氏」が加わり、にぎやかに『源氏物語』がならぶことになる。百花繚乱の「源氏」だ。
 遡って「源氏訳」を調べてみると、与謝野晶子『新新訳源氏物語』=「与謝野源氏」(1939年)をスタートに、3度改定した谷崎潤一郎の『訳』(41年)『新訳』(54年)『新々訳』(65年)=「谷崎源氏」が脚光を浴びて「現代語訳」が登場した。
 後も窪田空穂『現代語訳源氏物語』(43年)池田亀鑑『全訳源氏物語』(55年)玉上琢弥『源氏物語評釈』(69年)と続き、円地文子訳=「円地源氏」(73年)田辺聖子訳=「田辺源氏」(79年)瀬戸内寂聴訳=「瀬戸内源氏」(89年)の3女流作家の「源氏」が出てきた。
 さらに今泉忠義『源氏物語全現代語訳』(78年)の学者訳もあり、中井和子『現代京ことば訳源氏物語』(91年)や橋本治『窯変源氏物語』(93年)の特異訳も刊行された。後、尾崎左永子『新訳源氏物語』大塚ひかり『全訳源氏物語』(2010年)林望『謹訳源氏物語』(13年)と続き、現在、中野幸一『正訳源氏物語』刊行も続く。また各種各様「まんが源氏物語」も数多く刊行され、各地の書店には「源氏コーナー」設置が目につく。
 我が家の書棚には、その他、川口松太郎『川口源氏新源氏物語』北條秀司『北條源氏』梶山季之『好色源氏物語』それに柳亭種彦『偐紫田舎源氏』ではなく、井上ひさし「江戸紫絵巻源氏」がならび、かって「源氏」に凝った時期があったことを思い出す。


 紫式部『源氏物語』を日本人で世界に初めて紹介したのは、郷土の偉人・末松謙澄(1855~1920/福岡県行橋市前田出身)で、日々、我が家近くに建つ「末松謙澄生誕之地」碑を見る。彼は10歳で幕末の漢学者・村上仏山の私塾「水哉園」に入塾。明治4年(1871)17歳で上京。苦学を続けて新聞界へ入り、高橋是清、福地桜痴らを知り、伊藤博文、山形有朋などの知遇を得て官界に入った。
 24歳で英国ケンブリッジ大学に留学。明治15年(1882)ロンドンで末松翻訳の『源氏物語』が出版された。日本初の「末松源氏」は「佳訳」との評価も得たという。
 後、世界各国で「アーサー・ウェイリー源氏」をはじめ、多くの翻訳出版が続く。
 長保3年(1001)以降に書き始めたといわれる「源氏物語」が、悠久の時を超え、なお新しいのは人間愛を綴る魅力なのだろう。

# by inakasanjin | 2023-12-29 09:00 | 文学つれづれ | Comments(0)

豊前国小笠原協会の挑戦


 いい新聞記者に巡り会ったと思う。仲間の活動を報道して頂いたからではない。私自身役所勤め40年近くの間、半分は広報業務で報道関係者との交流が深く長かった。多くの記者にご交誼賜り、役人気質ではない生き方を学んだと思う。市役所退職後もメディア関係者との交流は続く。
 そんな中、N新聞のS記者は、行政などから与えられたネタではなく、捜し見つけた独自ネタ報道が多い。現在では奇特な方だ、と思う。昔気質の記者視点には感心する。初めての出会いから3年余が過ぎる今、確かな目を持つS記者に感謝したい。

 平成23年(2011)、郷土の地域おこしをと、福岡県みやこ町で「NPO法人豊津小笠原協会」を立ち上げ、銀閣寺に伝わる華の「無雙真古流」がみやこ町発祥などを突き止めて地域発信をしていた。そんな取材をはじめ、隠れた文化遺産発掘に力を頂いた。
 珍しい遺産では、細川家の『永青文庫』に「(略)寛永5年(1628)9月15日(略)仲津郡ニ而ぶどう酒被成御作候(略)がらミ薪ノちんとして(略)」の記述が「日本ワインのルーツ」で、みやこ町犀川大村と判ったことだ。この話題に着手、活動の折々にはS記者の報道があった。
 後、地域の文化活動をもっと広げようと、平成30年にNPOから「一般社団法人豊前国小笠原協会」に替わった。その年末、宮崎県の五ヶ瀬ワイナリー(宮野恵支配人)で約400年ぶりに〝ガラミワイン〟の再興がなった。ガラミは学名エビヅルで古名はヤマブドウとも呼ばれた。ガラミから「ぶだう酒」を造った〝細川家物語〟があった。

 元号が令和に替わると、S記者は「これまでのガラミ」を追いたいと言われた。そして「再興細川家ワイン/豊前国小笠原協会の挑戦」と題する連載が始まった。連載でのサブタイトルは、❶史実―古文書の「ぶだう酒」、❷指南―細川元首相から電話、❸探索―住民に活動広がる、❹支援―宮崎の醸造所が参入、➎連携―行政も取り組み注目、❻記者ノートー文化的活動にも力をーと活動の仔細が記されていた。感謝だ。こうした、それぞれの仲間の思いや動きを正確に伝える〝今を刻む〟報道は、将来の正しい〝歴史を刻む〟ことに繋がるだろう。

 ニュースとは、現れた時が旬であり、それを伝えるのが報道だろう、それを逃すのは報告でしかないと思う。現在、報告記者はいるが、報道記者は少ないようだ。時を越えて出現したガラミは〝旬の素材〟だった筈だ。S記者は、その〝ガラミ物語〟を追い続けてきた。

# by inakasanjin | 2023-12-22 09:00 | ふるさと京築 | Comments(0)